年末から新年にかけて、家族サービスや仕事、大雪との格闘に追われ、まとまった稽古時間がとれなかった。情けない。

私の武が、いかに暮らしに根付いていないかという証拠ではないか。

たとえ試合チャンピオンであろうとも、武道高段者であろうとも、生きている現実、目の前の社会とつながりがなければ「小山の大将」ではないか。

それが、混迷の現代に必要とされるチカラとなろうか。

やはり我が武は、時代遅れの全く必要性のない「曲芸」か「結構なご趣味」なのか。小さい頃からよく悩んだことだ。

しかし再び自問する。それならば、いくら現代でメジャーなジャンルだろうとも「我こそは人類に絶対必要不可欠の存在だ」と断定できるものがいくつあろうか。

もしかすると「有名だから」ということで満足し、己の存在意義を全く自問自答することもなく過ごしているジャンルもあるのではないか。それはそれで驚くべき大胆さだ。

すなわち、どのジャンルにも価値の高低などなく、それをひとつの方便として、いかに世界の本質をのぞくことができるかどうかではないか。

私だってこの小さな窓からでも…。

それでも拙い我が稽古が、そのまま日常の暮らしにも応用できることに気づくと面白い。

ぬかるような雪藪をスムーズに歩く、アイスバーンを転倒しないで歩く、餅搗きで杵のインパクトを強くする、スキーの急斜面で連続ターンする、スキーブーツを履いたままでも軽やかに歩く、雪片づけで重い固まりを運ぶ、ツルツル滑って落ちそうになる屋根上での雪下ろし…。

どれも家伝剣術と林崎新夢想流居合で、工夫、稽古している身体の在り様が、そのまま使えたから面白い。

ふつうならば相反するはずの軽やかさと重さが同居できる。

特にスキーのターンは、林崎新夢想流居合がつながる。

立ったスキー姿勢と、低く座った林崎の扶据(ふきょ)は、外見上全く異なるが、双方とも「薄氷の上で変化に即応できる自由自在さを得る」ことにおいて、身体の在り様は共通しているというのが私見である。

特に搗き上がった餅は「よく搗き上がったいい餅だ」といろんな方から好評だった。

これは家伝剣術の「甲をも打ち割る」斬りのいい稽古だ。臼と餅をつらぬいて地底まで、杵の威力と我が体重を通していく。

それでも、どれも我が力をあまり使わない。踏みしめない。そのまま備わっている自重をそのまま利用してラクにこなす身体遣い。

俗に言うスカイフックとでもいうのか、背中の両肩甲骨から翼が生えて、そこから天上へ吊りあげられている、武芸絵伝書の天狗のような感覚。

武の形とは、手順を覚えるためではない。セレモニー用でもない。

それだけならば形は、千変万化の実戦に全く耐えられない。

そうではなく、形が要求している所作、状況をこなすためには、どのような身体の状態、有り様が重要となるかを学んでいくための課題である。

このことはここ数年、ことあるごとに何度も何度も提案してきたが、案外うまく伝わらない。

必ず「実戦に使える形はどれですか?」という、即物的な質問が出てくる。

(現代の我々が考える「実戦」という定義そのものが、実は、知らず知らずのうちに、ふだん見慣れて固定観念化させてしまった競技体系である場合も多いが)

自由に選択可能な市場社会だから、ひとつの形の前に座り込んで問い続ける労苦よりも、打ち捨てて違うことへ向かった方がいいのが人情である。

私だってそうするだろう。ただそれをしなかったのは、家伝を背負っていたからにすぎない。

それでも稽古が暗示するように、モノとしての身体を軽やかに整えていくと、自動的に沈んだ心まで解放され、いままで混線していた屁理屈が雲散霧消する。

家伝剣術も林崎新夢想流居合も、技術追及の果てに、日々の悩みや死への恐怖から解き放たれた滞らない心身、不動智を目指していたという。

ならば、それは心身の調整、修養方法として、現代の暮らしにも充分活かせるはずだ。

人智で設計されたフィールド内での特別な技能へ特化していくのが近代競技スポーツならば、

生きるための技法としての武は、状況を選ばす、汎用性が高くなくてはならないのだろう。