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古剣稽古日誌

古剣稽古日誌

本屋で「月刊秘伝2015年3月号」を立ち読み。

表紙を一枚めくって驚いた。高名な韓氏意拳宗家 韓競辰老師の写真の下に、白い道着で剣を持ち、下手くそな上段をとっている私がいた。

あまりに対照的な姿でお恥ずかしいかぎりだ。

韓老師にはなんどかご指導いただいた。数年前には奥さまと光岡英稔師範ともども、弘前の我が北辰堂へおいでいただいたことがあり、我が祖父の扁額「平常心之道」をお褒めいただくとともに、その場で光岡師範と剣術の稽古(対複数技も)が始まり感銘したことがある。

さて、居間で、独りで剣や素手の動きを工夫、稽古しながら、ハッとなった。

最近の我が暮らし、公私ともに調子がいいようで、本当は拙く荒れていたことに気づかされ、稽古によって心身の拘束から解放されるとともに、ひとしきり反省させられた。

常にこうすべきだと苛立ち、己を、他を、目の前で発生する現象ことごとくを攻めることばかりに終始していた。

仕事がそのような仕事であるためか、日常の心身までそうなってしまう危険性がある。身の回りでそのような人物を見て「ああはならないようにしよう」と思いながら、実は我もそのようになっていたのだ。

そのやり方が、小さな世界で「たまたま通じていた」ときは気づかないものだが、そのうち魔は魔を呼ぶものだ。

ますます己も周囲も苦しくなり、無間地獄が増幅していく。ますます己が危うくなる…、という状況だ。

ふと、己の身体と刀そのものに向き合い、なるがままにゆっくり寄り添い、誤りであろうと、慮外であろうとなんだろうと、発生する現象の小さなことにも導いてもらうような稽古をしていると、

しだいに己の我意が溶けていき、心身のスキマが消え、充ちてきて、世界が拡張していくような感覚、己と他との境界が消えていくようだ。

そうなれば、我も回りもどちらもなるべくしてあるもので、ともにひとつであるような。理屈を越えて腑に落ちてくる。

武は、同じ稽古でも、己を通そうとするがあまりに、世界をねじ伏せ、世界も己も閉じて苦しく弱くなっていく稽古がある一方で、

己を世界へ開いて一体となり、より豊かに、強靭になっていく稽古があるのだろうな。

ついでに、剣は切っ先だけでもだめで、刃部だけでもだめで、双方備わっていることが重要な機能を生んでいるだろうことに気づかされた。

いまさら当たり前のことだが。実技稽古でもさらに突き詰めてみよう。

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