春は出会いと別れの季節だ。

当会の森井俊和氏は、剣道有段者で直心影流剣術も修め、中国拳法も学ばれている猛者だ。いろんな稽古と活動をご一緒してきたが、このたび九州へご栄転となられた。

大変寂しくなるが、武を稽古している限り、我々との武縁はこれからも続く。さらなるご活躍を祈念します。

さて、いまさらながらだが、外見上は窮屈に見える家伝剣術の構え、身法が、最も打たれやすい拳を守りながら構えていること、さらに己の前方だけではなく、後方や左右どちらからの急変にも応じやすいようになっていることに気づいた。

先祖達はこれで生き延びてきたのだ。一方で私は、前方のたった一人だけを相手にすればいい、競技的技法の先入観に囚われてばかりいたようだ。

また、家伝剣術形のなかで刀の柄頭を膝へつけるような所作が多いのだが、これは刀鍛冶が重い槌を振るとき、体幹と連動させるようにして槌の重さを消す工夫とそっくりであることを知って、面白くなった。

世界を一面的にとらえれば、いろんなものが見えなくなる。

例えば熱狂的ファンも多い、首都圏の有名テーマパーク。

一度入園したら幻想的雰囲気を壊さないように、様々な最新システムやサービスが尽くされている。

親子でなんどか行ったが、全く酔えなかった。すべてが平坦な世界にしか思えない。

秋葉原のアニメショップでもそうだった。色とりどりの漫画が壁面いっぱい描かれているのに、センスが無い私には、何も無いがらんどうの空間にしか感じられなかった。

逆に、津軽の田舎風景の方が圧倒的な存在感を感じる。なぜだろう。

おそらく現実世界とは、人が好む美しいもの、人が設計したものだけではなく、慮外の陰影や汚濁、歴史的な蓄積なども無数に重なり合って、その存在感、深遠さを生んでいる。

それは武もそうなのではないか。

長い間「わたしのやっている剣技は、剣無き現代にとっては、過去の遺物、時代錯誤。現代、隆盛している体術、格闘技こそ、普遍的な武か」と思ってきた。

だがそれもやはり一面しか見ていない、競技的観念なのだ。

確かに道具を使う武は、普遍的方式ではなく、ひとつの局面にすぎない。

しかし同様に素手のみでの戦いも、人類にとっては限定されたひとつの局面にすぎない。

もしかするとそれは、現在のように治安制度が確立し、武装解除が徹底された近代以降の市民社会で常識となり、主流となった形式なのかもしれない。

どちらが優れているかという問題ではない。崩壊した不幸な時代や社会では、道具を用いる武の需要が高くなってしまうのだろう。

あたかも激しい荒海を渡るときには、泳ぐよりも船を使って生き延びるように。

残念なことに、人類の歴史のなかでは、そのような状況の方が多かったのだろう。

二度とそのような時代が来てほしくないと強く祈念する。

だが、現在とは異なる過酷な時代を乗り越えるなかから、先人達が発見した心身の智恵、光明学び、いまを大事に生きることへとつなげていくこと、そのような己と他者の非日常、狂気がもしも発生したとき、いかに対し、和らげていけばいいのか、心身を通じて学んでいくことも古流の役割のひとつか。