生物学者の面白い共著を読んだ。

人間が社会システムに依存する「自己の家畜化」が完成してくると「定められたルールに従わなくてはならない」という要請が出てくる。

ルールに徹底的に従うことは、自分の判断を停止することになり、脳をあまり使わなくなる。

しかし人間にはもともと「頭を使いたい」という欲求がある。

よってその矛盾をなんとかするために社会は、「社会が要求する方向で頭を使こと」をすすめるが、そのときの社会システムが興味をもたない方向へ頭を使うことをやめさせようとする。

そのため、今の教育は従順性を言う。

「これだけ教えるから、それを材料にして、お前勝手に考えて何か発明しろ」とは言わずに、すでに発明されたものを中心に作られている社会システムを、いかに人に迷惑をかけずに礼儀正しくルールどおり使うかということに長い時間をかけている。

だが、大自然のなかでは、同じ野生動物が同じことをするのを見たことがない。

つまり野生では同じ行動ができない。そのときそのとき新しく行動を考えている。

反面、人間の生活は、意外と複雑のように見えて、実際の面は非常に単純化が進んでいる。

小原秀雄羽仁進『ペット化する現代人』1995年)

なるほど。人の在り様だけではなく、武の稽古のありかたについても大変参考になる。

本質はともかくとして「正しい基本とは」「正しい生き方とは」とやったら、人は落ち着けるようだ。

だが、一定の様式のなかで通暁してしまうと、その枠組みに依存していることの自覚がなくなり、外海に一歩出たとたん通用しなくなる。わたし自身もそうだ。

稽古で意外な現象を体験し、そこから新しい気づきを得る人もいれば、「これは正しい剣ではない。そもそも…」と目をつむり、力づくでねじ伏せるかのように「正しさ」へ戻そうとする盲信者も少なくない。

さて、武技において、相手との接点を生み出し、そこから相手を崩す、ということは万能か。

常に流動し、変化している彼我の関係など当てにはならない。期待するのは危険だろう。

特に、接点が重視される組み討ちなどでは、彼我の関係性を固定化しようとしてことによって逆に己も拘束され、我より巨漢相手には苦戦せざるをえなくなるものだ。

かつ、接点を重視することは、一対一ならば有効な場合もあろうが、複数の敵相手には困難だろう。

どうすればいいのか。

そのヒントが、流れるように刃がついている刀剣の構造か。

刀の構造は、任意の定点で接触して、そこだけで機能しようとする構造にはなっていない。

我々は竹刀稽古をするたびに、打ったという手ごたえを求め、打ったぞという示威行動をしてしまう。

だが、相手との攻防世界を、打突点を増やすことでカバーしようとすれば、点は際限なく増え、その分、間欠も無数に生まれていくことを知らされる。

すると際限がなく満ち足りないから、己の恐怖、警戒も無数に増えていく。

だが、世界を点の連続ではなく、流れ、面でとらえるならばどうか。

無数の点は一体となり、間欠は消え、安心が増える。

己の調和が、流れが整っていれば、相手がどうであろうとも、それにかかわりすぎることなく、生き生きと活動していけるのではないかいな。

そのような武の動きは、おそらく舞いの名人にも通じたろう。

これは実用性を喪失した刀剣が、いまもなお導いてくれる、人の有り様、位、生き方だ。

しかし、このような切れ目のない、流れるような見事な動きが崩壊し、再び間欠の連続へと戻してしまうのは、大概、己の「四戒」(驚・懼・疑・惑)ではないだろうか。