3年ぶりに学芸員に復帰した。心機一転、新しいチカラが満ちてくる。

すると、ときを同じくして周囲の方々にもいろんな変化が訪れていることに気づいた。天地、世界が動いているのかな。

ここ一か月、仕事が忙しくてなかなか稽古できなかったが、心身の変容は、無意識のうちに武技にも影響するようだ。

ふと何かの壁がはじけ、自分のなかで、ようやく杖と剣の動きがつながった。

いままで剣術の地稽古(自由打ち合い稽古)では、密着した鍔迫り合いの間合になると、私はどうしても組み合ったまま居着いてしまい、大きな課題を感じてきた。

竹刀剣道の形式化した鍔競り合い技法を「真剣ではありえない」と批判できるレベルに達していないぞと。

だが、この気づきで、もしかしたら、それが打開できる。

居着いてしまうような急場でも、自由自在さを得るのが武のモットー。

間合いが詰まって密着してしまった状態でも、剣が、身体が、自在さを獲得できるかもしれない。

ひいては、動きのなかで刀剣がときに杖になり、ときに槍になり、上下左右へ途切れなく転変することが堪能できるかもしれない。コロンブスの卵だ。

これは実はいまに始まった技法ではなく、素朴な家伝剣術形のなかでもすでに示されていることに気付けた。私が見えなかっただけだ。真剣での抜刀稽古でも試してみたい。

これは竹刀剣道時代には、全く想像もできなかった遣い方だ。あれほど自由に打ち合っていたつもりだったのに。なぜ気付けなかったのだろう。

確かに試合で切磋琢磨することは技の工夫と進化を生む。

しかしときにそれは、試合ルールという前提条件の内部での進化であり、ルールが変われば、またはルールを取り払ってしまった場合、必ずしもその技法が成立するとは限らない場合もあるのではないか。

すなわち、なにを言わんとしているかといえば、我々が知っている刀法、「正しい刀法」と信じている技法は唯一のものでは決してなく、日本刀が誕生してから先人たちが編み出してきた技法のなかの、ほんの一部にすぎないのではないだろうかということだ。