「重くて不自由な甲冑を着たら、動けなくなるし、走れなくなる。」「その重さゆえ、低い腰になるのだ。」という言説があるが、はたしてそうだろうか。

もしかすればそのような言説は、全く実体験がないか、体験があっても甲冑と自分の身体がバラバラであるゆえの見解ではないか。

私の拙い稽古体験だ。

甲冑(当世具足)を着て、その重さに負けまい、なんとかコントロールしようと頑張ると、何も見えてこず、歯を食いしばってジタバタして疲労しているだけの鈍重な存在のままだ。

しかし真逆に、甲冑の重さと構造へ素直に身をゆだねていくと、面白い体感覚が生じてくる。

両肩は落ち、背骨から生えているような両腕が前方または下方へすっと伸びていき、それが推進力となる。

そして背中、ことに内部の背骨が上下にすっと伸びていく。

一方で腰は落ちて中空に浮くとともに、両足裏と両膝も軽やかに浮き上がる。

直立したサルにも似ているが、こうなると、甲冑の重さが消えていき、身軽になる。

そのうち、両足の付け根の中央の内部に横のラインが、臍下のあたりに垂直のラインが意識されるようになり、あたかも下腹部内部に丁字型の暖かい部位が生じる。

そしてそこへ全身各部がまるで見えないワイヤーでつながれているようになり、各部の自重が消えていく。

そのとき生まれて初めて「丹田というものが実在するのかもしれない」ということが、素直に想像できた。

また甲冑の重さそのものを、前後左右へ変化する推進力へ生かすこともあったのではないか。

とくに甲冑姿で前方へ倒れ込むように走り出すと、まるで何かに牽引されているような、何かの大きな流れに載せられた自動操縦のような感じも発生し、案外、ラクに駆けていけるものだ。

そのとき鼻先が、全身の方向を決める舵のようなセンサーに感じられることもある。まるで水中を泳ぐ魚の頭のように。

頭上の兜も重要な構成要素だ。

なぜならば、この前までは、兜だけ脱いで小具足になると、首が楽になって全身も楽になるかと思っていたが、そうでもないようだ。

兜を脱いだとたん、さきほどの全身のつながり、一体性が消えてしまうのである。

このように甲冑は、重くて窮屈な存在ばかりではなく、己の身体能力を引き出してくれる便利な装置だったのではないか。