最近ようやくまたひとつ、気づきはじめたことがある。

形と自由稽古の関連性だ。

いままで「両輪のように大事」とする定説を鵜呑みにし、いまひとつ、己の実感としては、わかっていなかった。

なんのために形があるのだろうか。

ただ自由に打ち合っていれば上手くなるならば、形も教えも不要ではないか。

初心の方々へ家伝剣術を指導する機会が増えた。

そのことによって、実は私自身が、いままでの己を顧みることになり、育ててもらっている。

どうやったら上達へと導けるのかと、古いやり方ばかりではなく、いろんなトライアンドエラーをしていると、なんだか見えてきた。

ひたすら形稽古のみでは、よほど留意しないと、ときにそれのみが正解であると勘違いしはじめ、己の自意識のみの世界に安住し、その動きを背景から支えている、無意識の心身が育ちにくいのか、慮外への臨機応変に乏しくなる。それは先学も指摘してきたことだ。

慮外への即応こそ、武の専門分野だと説く方もいる。

ならば、慮外に慣れるため、最初から自由乱打のみでいいではないか。

始めから自由稽古ばかりやってみる。または形稽古を中途にしたままやってみる。

ことに武道や格闘技の世界では、地稽古、自由組手、スパーリングを経験した者でないと信用ならない、とまで断言する方も多い。私の祖父や父もそうだ。確かに一理ある。

よって私の剣術稽古では、ときどき袋竹刀や試合用薙刀などを使い「どこでもいいので好きなように打ち込んで、いろいろ実験し、工夫してみましょう」と私が身を開く。

すると初心の方であれば、まずは、どう構え、どう間合いをとり、どう詰めていくのか、戸惑う。

ふだんやったことがない「生きた人間を打つこと」にためらう方も多い。

だんだん慣れてきて打ち合いが始めると、確かに、人間に本来備わる生理的反射運動が自由に発揮されるためか、思わぬ臨機応変、即応性に富み、なるほどこんな打ち方もあったかと教えられることがある。

だがここで気付くのが、その動きがそのまま武技としての効力を発揮しているかということだ。

家伝剣術曰く「当たるか当たるまいかメクラ打ち」となってしまい、武具が刀剣だろうと、棒だろうと、ともに相討ちから抜け出せない。

つまり、何度も試行できる競技ならばこれで充分だが、たった一度きりしかない急場を生き延びるためには、確かな術が、精緻な法が必要となるのだ。

(例えば自動車の運転もそうだ。

自動車事故は、ときに生死や深刻な訴訟問題にも関わるから、我々は少しでも事故を起こさないよう、毎日懸命に運転している。

だがもしも、自家用車がいくらぶつけても安心安全な柔らかい存在だったらどうだろう。我々の運転技術と心身は、全く異質なものへ変貌してしまうに違いない。)

そしてなにより、その自由乱打のなかからは、なかなか刃の通るべき道筋が出現してこない。

これでは、刀剣が本来備えている特徴的構造を活かしきることができない。

刀剣が持つ構造は凄まじい。

相手への打突、接触点を選ばない。たとえ敵との間合いが詰まって密着し、静止していても刃が機能し、一方で剣先とともに攻防一致の状態を発生させやすい。

もしも、このような刀剣の特性を活かすことができれば、私の武技におけるいろんな課題は、一度に氷解し、全く新しい地平が見えてくるのではないか、と夢見て稽古している。