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何がリアルな武なのだろうか。
それは人によって異なり、私も明快な答えができない。
だが、武が仮想空間の競技ではなく、現実を生きぬく技法だとすれば、
その稽古眼目はそのまま、現実世界とは何か、生きることをどうとらえるか、
という大命題へ、自ずと直結していく。
いわゆる武道で教わる技は、実際の場面ではどのような功があるのか。
そのような純粋な疑問がわき上がってくるのが抑えられず、
T氏は、当会の研究稽古へおいでになられたという。
その疑問を、かつての同門、全国武道の指導者に話したところ
「「実際」ということは、外国ならともかく、日本ではありえないよ」と一笑に付されたという。
その「ありえない」と断定してしまう視座こそ、武の大命題を自ら放棄していることにならないか。
もちろん現代において、刀剣を用いる機会は皆無に近い。あってほしくない。
それでもこの武技は、先人達が現実といかに向き合うかという、切実な探求のなかからこそ生まれたのだから、我々も稽古のなかで、その根幹である「現実」を手放してしまえば、もう武ではない。
それは似て非なる何か別種目と化してしまう。
一方、以前ある交流会で、実戦派を標榜する師範にお会いできたが、その後、我々の林崎新夢想流居合稽古を「大道芸だ」とのご批判もいただいたという。
初めて我々の不可思議な稽古を見れば、確かにそう見えるだろう。十代、二十代の頃の私なら同じことを考えたろう。
この稽古設定が、いったい何を内包しているか、懸命にご説明申し上げた私にも不足があったのだろう。
他者からの批判やご指摘は、私の不足を補っていただく貴重な機会としたい。
では、その方の技はいったいどのように工夫されているのだろうか、とお教えいただく。
すると、あたかも一問一答式のように、こうきたら、こうするという、即物的なマニュアルが多かった。
わたしは小学校以来抱いてきた、単純な武技への疑問を思い出していた。
「こうきたらこうする」という技は、それ以上でもそれ以下でもなく、それひとつだけしかない。他には何も紡ぎ出してこない。
ひとつに決めてしまえば、無数の「それ以外」の前に無力となる。状況が変われば、すぐに無効になる技の寄せ集めとはならないか。
「敵」という存在は本質的に、我の「ひとつ」の期待をなるべく裏切ろうとするものだから。
単純なリアルさの限界と徒労。