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17世紀の佚斎樗山が著した有名な武道書「天狗芸術論」を再読。
その内容には、具体的な技の説明がなく、精神面だけを扱っているのだ、とよく言われる。はたしてそれだけだろうか。
10代の頃の私も、難解な観念論のみで参考にならない本だと決めつけていた。
だが再読して、その浅はかさを深く反省。
わたしの見方は、技とは「どこをどう打って」というものである、という現代の即物的ハウツー本であり、武を剣を、「競技」として考えていたからではなかったか。
即物的マニュアルは、目の前が少し変化しただけで、すぐに無効になりやすい。
違う。「天狗芸術論」は、往事の武士達にとっては、かなり具体的な術理、心身の運用法が説かれている本だったのではないか。
なぜならば、この愚鈍な私でさえ、冒頭部分を読んでいるうちに、実技稽古の感覚が出てきて、うずうずと体が動き出してくる。
いままで腑に落ちなかった稽古上の悩みのあれこれへの答えがある。
すでに時代錯誤となったはずの剣技が、いま生きている現実と重なっていることに気付かせてくれ、心が晴れやかになってくる。
先日ある大会で、生涯にわたって何をめざして剣を、武を稽古していくのか、深く考えさせられる光景に出会った。
一問一答クイズや検定試験ではないから、哲学や思想同様、正解などない。
人それぞれが歩く道にゆだねられている。
だが、武の目指すところによっては、その人の生を不自然にし、砂上の楼閣のような結末を招いてしまう場合もあるようだ。
その危険性はこの私にも充分に潜んでいる。
剣は、武は、急場において外界と接触するなかから立ち上がってくる存在だ。
そのときに、引きこもるのか、それとも際限なき、他人との相対的比較のループへ陥るか。(比較のループに囚われた己は、相手と場に居着き、己の自由、自律性を失っている。)
いかにすれば、外界に即応していくと同時に、己の内側もみることができるのかどうか。
例えば武の世界では「お前は間違っている。オレこそ正解だ。強いのだ。」などと他を睥睨してカタルシスに酔ってしまうことが多い。
それは蜜のように甘い誘惑、本当にやっかいで、消しても消えない炭火のような情念だ。
反面、己の世界を狭め、堂々巡りさせていく愚かしさ、逃避へとつながりやすい。
己の「正しさ」を固定し、強化し続けることで不安から逃れようとする行為は、荒波のなか、常に同じフォームで泳ぎ続けようとする愚かさか。
または、形骸化した型を盲信し、権威に閉じこもって繰り返すだけの徒労稽古に似ている。
そして、否定した相手との憎悪の連鎖が始まり、敵がますます増えていく無間地獄へ。
残念ながら現実世界では、己の正しさや好悪にかかわらず、様々な現象が現れては消えていく。
私は、それらの前で喜び、恐れ、怒り、悲しみ、ときになんとかコントロールしようと焦るばかりだ。
だがおそらくその多くは、ちっぽけな私の意志や力では止めようがない。
変化のことわりを知るのが剣術の聖人だと先師達が説いたように、私にできることは、ひとえに、家伝剣術小太刀の教えのように「胸憶を開き」、向き合うかどうかだけが問われているのではないか。
そのために磨かれてきた技法、知恵の文化が、武だったのではないか。
幼い頃「この世に無意味なことなど何もない」と父は教えてくれた。
限られた人生の時間のなかで、そのすべてを体験することは不可能だ。
それでも、与えられたいまこの目の前の現象は、私に何かを気付かせようと現れてくれた、かけがえのないサインではないかと見つめること。
そして、己自身が求めるところを稽古するなかから、行き詰まりの壁が開かれて、豊かな新しい地平が開かれてくるのではないか。
まさに武の稽古の現場も、その連続なのだ。