打突部位を限定してしまったことは、稽古上の便法であり、競技化と普及のためには効果的であったのだろうが、武技としては課題が生じた。

本来は仮の約束であった打突部位。

それを前提とした竹刀稽古を激しく深く心身に刷り込んでいくと、仮の約束が、いつの間にかすべてとなり、打突部位は意識が濃いが、ほかについては意識が薄くなり、見えなくなる事象が、いや見ようとはしない世界が生まれてくる。

例えば形稽古になったときも、防具を着けていない素面素小手であるのに、なぜか防具着用上の小手・面・胴の打突部位を前提とした、刀法と身体運用をしてしまう。

だから形が示そうとしていた本来の技法は変容していく、古流の形はさらにわからなくなる。なかには打突部位限定の観念で、古流の正否を評価してしまう奇妙なことも出てくる。

仮の稽古が、本来より重要となる本末転倒。

よって、経験者との稽古では、まずそのことから意識を転換していただくことが大きなポイントとなることが多い。

本来の刀ならば、打突部位を選ばない。剣と人が一致していれば、どの部位だろうがどの瞬間だろうが、触れるところですべてその機能を発揮する。

だからこそ人の心身もそのような状態、どの瞬間においても、八面玲瓏となるよう導かれていくのではないか。

なのに、運用上の仮の約束だけで、豊かな現実世界、人の心身の可能性を、狭く小さくしてしまうのはもったいないではないか。