青年時代に「強さ」を求めて互いに切磋琢磨、稽古することは必要な修行過程だ。

この拙い私でさえ、そう希求していた。

だが、その「強さ」の内容が、いつまでも他人との比較にこだわり続け、老年まで全く変わらなかった場合どうだろう。

居着いたその、己の小さな観念によって、やがては自縄自縛、敗れるのではないか。

この混迷の世の中で、個対個の優劣争い、メダルや段位争いのみに終始していては、その背後にあるもっと巨大な存在、制度の前には全く無力で、ついには取り込まれてしまう恐れがある。そんな小さなことのために武が、兵法が生まれたのだろうか。

「蓋し兵法者は勝負を争わず。強弱に拘らず。一歩を出でず、一歩を退かず。敵我を見ず 、我敵を見ず。天地未分陰陽不到の処に徹し、直ちに功を得べし」(「大阿記」)

ひたすら他人を攻撃する方法が武ではない。

相手を責めればその分、我も無事ではいられない。

生身の心身を持つ人間にとって、当たり前すぎるこの常識は、急速にバーチャル化が進む現代では、なかなか気づくことができず、我々はひたすら危うい、先制攻撃をうたってしまう。

だが武の稽古のなかでは、それが現実たりえるのかどうか、いやがおうにも己の心身の実感を通して学べる。

特にそれは「何発か受けても大丈夫だ」が全く成立せず、触れれば斬れる剣槍の稽古のなかでこそ、端的に体験できるのではないか。

その困難さだからこそ、武は闘争を越えて、己のありよう、人と人との関係の持ち方を学べるのではないか。

己の身体を通じて、己自身と世界とのつながりを考え続けていくこと。

剣は失われようとも、そのような己に向き合う小さな稽古が、大きな世の中を生きていくことに直結していく。

皆が同じ方向へと同調し、僭主を待望し、上意下達へと流されやすく、なんだか危うなってきたこの世に対して、己の生をいびつにすることなく、肯心自ら許して歩いていける心身の養成につながるのではないだろうか。

そして我々がそれぞれの特性を伸ばし、個々の質が高まることは、世の中全体にとってもいいことなのだ。

日々の暮らしのなかで、疲労困憊、力がみなぎらない、剣を振るのもおっくうな日もある。

だがそんなとき「なんで力が入らないのか」と焦ること自体、劇的に復活するような身体観を持っていること自体、己の囚われ、間違いだと気付いた。

実は立って歩いていること、生きていること自体、すでに精妙な行為をしている我なのだ。

わずかに残っている生気を、薄くまんべんなく全身へ延ばしてみるだけで、居着きが消え、生き生きとした状態になれるから、人の心身とは不思議だ。