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剣を構える。
相手の様子から戦略を練り、対象物との接触点をイメージして間合いを詰めていく。
しかし相手には意志がある。
こちらの存在を感知し、こちらが関与することで、すぐさま変化する。
するとそれを感じた我も変化してしまう。
変化の連鎖と応酬へと…
ここまでは道場内での話しだ。
だが、それだけではない。敵と我を包む周囲の状況、環境全体も活きて動いている。
だから闘争の場が室内ではなく、野外だった場合、変化に関わる要素が無数に増える。
すると天地と人の変化が連鎖し、相乗効果を生み、人の小智をすぐに越えてしまう。
最初のイメージなど使い物にならない。ならばどうする。
家伝剣術伝書は「変化の理」を知るのが剣の聖人だと説く。
人が、この世界がいくら変化しようとも、その変化にはしくみがあるというのか。
または、天も地も人も、それぞれ自身が成立し、存在するために最低限、変化しない器、規矩が存在するのではないか。
その規矩とはいったい何か。
そのことを脳内だけの幻ではなく、実技のなかで感得していく学びが武ではできるはずだ。
その際に、規矩を、わかりやすく人為的に設けたのが競技スポーツである。
対称的に、規矩が、人によるものではなく、天地のことわりによって生まれ、いつの間にか与えられてしまっているのが武だ。
いや現実の世界だ。我々の日々の暮らしそのものだ。
すなわち武では、己の考えた規矩が通じない世界があること、
そして前提だと信じていた器や規矩自体が壊れる場合があること、
それらのことを常に忘れてはならない。それが命とりになる。
このように戦いとは、小さな喧嘩でも大きな戦いも、必ずといっていいほど両者の期待と予想は裏切られ、混乱と想定外の連続となる。
幼い頃、子ども集団同士の喧嘩を体験したことがあれば体感的にわかるだろう。
だが、現代の大人が考える戦略のなかには、敵も我も互いにルールを遵守したうえで戦いが進むものだ、という思い込み、勘違いがある気がしてならない。
恐らくその慢心の背景には、平常での近代競技スポーツの観念が、深く刷り込まれて、固定観念化しているではないか。
そのことに気付かずに、慮外の現実の前で、大過を招かねばいいのだが。
(追記)
BS-JAPAN「美の巨人たち」2015年6月17日(水)23:00~23:30放送予定「棟方志功 飛神の柵」