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古剣稽古日誌

古剣稽古日誌

先日、「こうきたら、こう返せ」とやっている指導風景を見て、競技としての武と、そうではない武の本質的な違いを改めて教えられた。

「こうきたら」という入力も「こう返せ」という出力も、ともに一定のルール、枠組みのなかで成立している行為であり、いくらそれに通暁しようとも、ルールを取り払ったら、全く成立しない行為だった。

それはやはり、現実世界と向き合ってきた武士たちが必要とした技法ではないだろう。

だからといって、稽古でも現実と同じく「なんでもあり」にしてしまえば、危険すぎて稽古は続けられなくなる。

よって、安全のためのルールを設ける。

するとそのうち、いかにルールの裏をかいて、勝利を挙げようかというこざかしさも生まれてくる。

試合に勝つことが一番だからと、青少年たちに向って、ジャッジに見つからないよう、ルールぎりぎりでやる裏ワザを堂々と教える指導者もいる。

私が幼いころの道場では見たことがないタイプの指導者で、隔世の感が禁じえない。

あらかじめルールのある「競技」へ、互いに納得して参加しているならば、それを順守すべきである。

参加していながらも、そのルールを破ることは、すなわち競技世界そのものを否定すること、参加資格を自ら放棄することである。

そのような小賢しさをもって、いかに大会で連戦戦勝しようとも、子供たちに「表面上は装い、ばれなければいい」という処世術を教えているに等しく、「青少年の健全育成」とはなりえない。

もちろん「正しさ」「道」を標榜できる種目ではなくなっていく。

やがて子どもたちは、指導者に対しても同じようにふるまうだろう。そして指導者は、それを叱責できる資格さえも失ってしまう。自らにかけた呪いのようなものだ。

なによりも、そのような教えからは、物事の本質をとらえ、雄渾な次世代を拓いていくような若者は出てこないだろう。

与えられたルールを盲信し、従うばかりの姿勢も、

与えられたルールの裏をかき、ばれないように小賢しく立ち回る姿勢も、どちらも現代の我々自身のようだ。

両者とも己自身がない。ルールに依存して成立する小知なのだ。

全く異なるルール、ルールがない場にでくわせば、無力となる。

いくら試合に勝とうとも、道場を、競技場を一歩出たとたん、暮らしのなか、人生では…。

それが「強さ」なのか。

現実に対して、固定観念や小知にとらわれず、いかにその本質をとらえていくのか。

それが人工競技とは違う、武の特性ではないのか。

道場や試合は、自己修養のための「仮」の場にすぎない。

そこを出て、現実の社会を、人生を、豊かにたくましく歩いていけることこそ、本当の「実戦」「強者」ではないか。

おそらく往時の武士たちもそのために稽古していたはずだ。

策は無限できりがなく、それに伴い疑念と迷い、不安も無限に増えていく。

武の開祖たちが生きた戦国期は日々がその空しい応酬の連続だったろう。

そのなかから発見したのが「ただ中央をとること」

それを心身ともに実感できる稽古を私自身、希求している。

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