試合で勝ちたい、憎いライバルを凌駕したい、などとという情熱は、確かに稽古を進ませる。

だが稽古とは、いつも相手をしてくれる人がいるとは限らない。

また、己が何のために稽古しているか、という目的のベースが、憎いライバルの存在そのものに依存しているのも、なんだか自立していないようで面白くない。

もうひとつの稽古がある。

例えば、自分のなかにある程度、規矩が育ってくれば、たとえ相手がいなくても、たとえ試合やライバルがいなくても、

天地と己を相手にして、自らの心身の未熟な点や課題がいくらでも感じられてきて、それを解消することが、心身の構造、人間としての存在そのものを質的に向上していくことに直結することが痛感されてきて、いつでもどこでも充分稽古が楽しめる。

そこで培ったチカラは、試合コートのなかだけの限定された競技力ではない、広い現実世界を生きていくことそのものにも通用していくのではないか。

あれほど素朴で無味乾燥に思えた家伝剣術が、これほど豊かな理合をたくさん内包していたとは、それが私如き者の前にでも姿を見せてくれるとは…。予想もしなかった嬉しさだ。

ところが、それに没頭していれば楽しいのだが、私の場合そうはならないようだ。

他人が、組織が、整えて与えてくれる保証書つきの道を、階段を、素直になぞって歩けば、なんと安心だろう。

青年期までの私もそうだった。だが、家伝剣術の本質を求めるためには、現代の既成服を選ぶことはできなかった。

よって、稽古していく場、環境そのものを、自力で再生していかなくてはならない。

いくら伝統のチカラでも、いまの世界で活かしていくためには、先祖と全く同じ道をたどることはできず、いやがおうにも、新しく造り上げ、打ち立てていくための闘いが避けられないようだ。

悪戦苦闘しているこのことが、私をひとりよがりへ引き籠ることをやめさせ、拙い私を磨く砥石、得難き学びとなっていることに気づいた。感謝しなくてはならないのだろう…。

多くの人が忘れてしまって見向きもしない世界だからこそ、私がやらねば誰がやろうか。

ことに、ウロウロしているうちに、幸運にも、先人たちが確かに感得していた術理への、微かだが確かな手がかりを見つけ始めている気がする。

だからこそ、先人たちの威徳を風化させず、後から来る人々が、私のような無用の徒労をしなくて済むように、ここ100年続いた中央からの上意下達システムの末端で終わらずに、

この土地で独立独歩の心身を、世界を見出し、楽しみながらこの先へ進んでいけるように、参考目印をつけておく責任が生じた気がしてならない。

おそらく混迷の現代だから、参考とはなっても頼るべき前例などなく、いつか自分でも予想もつかない、全く新しい希望として現れてくるのではないか。