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各種スポーツ団体や学校部活動がどうしても陥ってしまう状況について。
指導時間が限られているから、なかなかマンツーマン指導ができない。
一方で、団体としての立派な業績を打ち出していかなくては人が集まらない。経営が成り立たない。
よって効率的な方法として、
大会参加を増やすこと。
メンバーをクラス分けし、特定の優秀選手だけに集中して投資すること。
すると確かに業績は出やすくなる。まるで企業のように。
選抜メンバーはどんどん活躍していくが、とり残されたビギナーたちは、そのための下働き、資源とならざるをえない。ずっと入口をウロウロするしかない。
君たちは会費さえ払っていればいい、手伝いだけやっていればいい。
「同じ学年なのに…」と階級意識が生まれ、チームはだんだんバラバラになっていく。
先日、子供たちの剣道大会でも、控え室に入るなり選手が「お前らはジャマだ。どけ」と初心者たちを蹴散らしている光景をみて愕然とした。
わたしが幼かったころは見たことがない光景だった。
「裏方」が美談になることもあるから、おそらく現代のスポーツ、武道競技では常識なのだろう。
しかしそれでは「人間性を解放する」「人間形成」とうたうスポーツや武道競技が、いつのまにか選手もそうでない子どもたちも、組織維持のために利用していることにはならないか。
かつてのわたしもそうだったのではないか。
選手だったころも、指導者だったころも、その冷たさに気づけなかった。
他人を資源にして上達した技芸など…。そんな剣など…。
過酷なプロスポーツのやり方を、体育会系での常識を、我々みんながマネする必要はない。
「私も練習してうまくなりたかった…」と去っていく子どもたちを増やすことが、その分野の繁栄につながるのだろうか。
どうしてそうなってしまったのか。
例えば、もともと武芸、古武術は、資師相承、マンツーマン指導だった。
もちろん先祖達がやってきた家伝剣術も旧弘前藩の各流派もだ。
やってみればわかる。対人技法は全くもって複雑で、目の前のひとりに伝えるだけで精一杯だ。
ところがそのことが、富国強兵を目指した明治期の学校教育には合わないとされた。
よって学校に採用してもらうため、当時の武術・武芸師範達は、西欧体操をモデルとして、ひとりの教師が一度に大勢を教えられるシステムに大転換していった。また近代軍事訓練の影響もあった。
そのことで武道は大普及し、国民文化となっていった。
ところが得るものがあれば失うものもある。
個別指導法を全体指導へと転換すれば、自ずと術理や技法もそうならざるをえなかった。
難解なことは割愛し、目でみてわかりやすく、一斉に教えられる簡潔な方法、誰しもがすぐに効果を感じられる内容へと変更せざるをえなくなる。
くわえて、大学生のなかから試合競技が流行することで、審判が勝敗の判定をつけやすい技法であることも求められた。それには西洋競技スポーツも大いに参考となった。
これらの模索のうえに、現在の「正しい基本」が形成された。それが確固たる常識となった。
それをベースとした試合競技での勝敗が、人々の参加意欲をかきたてていった。
どれも時代変動のなか、武が生き延びるための知恵「兵法」であった。歴史的な役割であった。
それでもやはり武は、生きている現実に対するものだから、ひとりひとりが最前線、現役選手だ。よって、その個々の人間を涵養するものであって、他人を資源とするうえに業績を積むことではないはずだ。
武において業績主義、試合偏重主義になるのは、己自身の稽古指針や術理が、あいまいになってしまったからではないか。
おそらく、無数の戦場のなかから汲み上げてきた先人たちの稽古には、ひとり稽古でも充分上達できる確固たる術理、規矩が代々伝承されていた。
それが忘却されて、己自身の規矩がなければ、常に他人との比較、すなわち試合での勝敗で毎回確認しなくては不安だ。己のことがわからなくなる。
しかしそれではたとえ何度勝とうとも、最期まで自分の本質はわからないかもしれない。
交際範囲を拡大することと、己自身の人間としての質が高まることが、必ずしも一致しないように。
一概に「武道人」といっても、生きるための技法や知恵の涵養ではなく、実は「試合競技」が好きなだけの場合もあるのではないか。
以上、批判するのは簡単だ。私自身は何をするのだ。
わたしは、この一世紀、時代が要請してきたことの逆をやろうではないかいな。
すなわち業績を上げようと焦ることを手放してみようか。
(いやその前に、この世界はすでに業績主義とは無縁になってしまっているな…)
業績主義を手放せば、人をクラスごとに選別し、資源とするようなことをしなくてよくなる。
マンツーマンで様々に異なる個性の方々と真正面から向き合うことは、私自身を磨いていただくこと、知らない世界に気づくことになり、濃密で楽しいだろうな。
非力なわたしひとりでできる一歩はそれしかない。
いや、先祖達のやっていた稽古に戻るだけか。
でもそれがこの先の新しい方法なのではないか。
これから人口が減り規模が縮小していく我が国では、
互いに争わせて人を選別し、切り捨てていくことは、ますます孤立化していくだけで愚かしく、
それよりもお互いひとりひとりの粒が豊かに、大きくなることが、総体としても強靱となるだろう。
(追記)
昨夜、ひとりで木刀を振っていた。ああしよう、こうするべきだ、と工夫したときは体が重くてこの先の展開が見えなくなり、気も重くなり、稽古意欲も減退していくものだ。
しかしフッと構えた後、ああこうなるのか、こうするのか、と、どんどん委ねていくと、これほど動けるのか、こうなってしまうのかと、見知らぬ意外な爽快な展開がどんどん拓いていくようだ。
言い換えれば、最初は確かに私の意志で始まるが、その後はすぐに意志を手放して半覚醒状態にして、どんどん流れに任せてみるといった感じか。どんどん心身が晴れやかになっていき、日常まで清々しくなっていく。
もうひとつ、剣道でも家伝剣術でも手の内のことを「茶巾絞り」「唐傘の握り」などいい、下筋を締めることの大事を説き、それが体幹との連関を生むことは知っていたはずだが、改めてそのことが拳の位置、構えや剣の位置を導いてくれ、乱戦のなかでも恒常的に無意識の構造となって導いてくれるだろうことに気づかされた。
剣とは稽古とは面白いものだなあ。