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道具にはそれぞれの特性がある。
だから自ずと導かれる心身もそれに規定されてくる。
やはり剣の道を学ぶならば、実際の刀剣がどのようなものなのか知らなくてはならない。
剣を規矩として、心身を構築するから剣の道であり、 竹刀を規矩とすれば竹刀の道となる。 ソフト剣を規矩とすればソフト剣の道となる。
どれも善悪はない。どの手段も突きつめれば、それ独自の素晴らしい世界が導かれよう。
だがやはり「剣の道」を標榜し、「剣の理法」を主眼とするならば、やはり現実の刀剣を無視できない。 代用品にいくら通暁しても、本物との断絶は大きいものだ。
例えば、いくらシミュレーターに励んでも、現実のクルマに乗ったことがない人を、ドライバーだとは言わない。
現実のクルマも刀剣も、代理品と大きく異なる特性は、いくらぶつかっても、いくら打たれてもかまわない、ということが全く許されないことだ。
すなわち、少しでも操作を誤れば、取り返しがつかない、人命にかかわるということだ。
このことは実に大きなポイントになる。いくらぶつかっても、打たれても平気では、また異なる心身になる。
失敗が許されない世界。それに対して我々がどう向き合うのか、というシビアな課題が、我々の心身を深く涵養してくれる。
同じ危険でも、自動車の運転ならば互いに同調するように行うが、剣の場合は逆に互いに相反しあうからやっかいだ。
危険を前にして生じてくる己の不安や恐怖を、単なる根性や気合いだけで押し隠すだけでは、心もとない。いつか結界は破られるだろう。
よって、なぜ私はそれに対して恐怖を感じるのか、己の内面の仕組みを見つめ直すこと、いかに対するかという具体的方策、身体技法を練り直すなかから、自我の更新と上達が獲得されていく。
そしてその行為の重さゆえに、乱用することの愚かさ、忌まわしさが痛感され、己の義務と責任が自覚されていく。
このような学びは、バーチャル化が急速に進展し、己の身体性を失いつつある現代において、大いに必要とされてくるのではなかろうか。