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古剣稽古日誌

古剣稽古日誌

地元の旅館のご紹介で、北辰堂へ外国の方が見学にこられた。

スウェーデンデンマークの男女だ。弘前でサムライの文化や技芸を見たいということらしい。

確かにこの城下町に来て「津軽の文化」といっても、ネプタや津軽三味線などの民衆文化、近代の洋風建築や料理、現代アート、全国フランチャイズの店等の方が多い。

往時の藩士たちの文化については、お城などの建造物以外は、あまり見ることができず、モノはあるが本当に実際の武士たちが暮らしていたのかどうか、実感には乏しいかもしれない。

それでも確かに、少数派であろうとも我々は武士達の技芸を継承している。我々の稽古は観光向けではなく、暮らしの一部としてやっている。

しかし関心がある方がいればご紹介するのはやぶさかではない。毎朝の剣道稽古、そして父と私で家伝剣術をご覧いただき、刀の抜き差しや素振り等を体験いただいた。満足そうに帰っていかれた。

近年、武道、武術に関心を持ち、熱心なのは日本人より外国人、男性より女性が多くなりつつある。私のところに来る方の傾向もそうだ。100年後、この分野は新しい形態へと大きく変わっているかもしれない。

さて、最近、十代、二十代の頃のように再びランニングをしている。

私はランナーを目指しているわけではないので、勝手な工夫を楽しむ走法だ。

まずは、地稽古のための地力を養成しておくこと。

かつ身体の感覚や多様性を磨くため、平坦な道ではなく、凹凸や起伏、茂みや林のある野道を走る。

加えて、地面をあまり蹴らずに、姿勢と体重を活かして勢いに途切れがない推進力をいかに発生させるか。両腕に刀槍を構えて操作しながら走れるか、と工夫しながら走ると楽しい。

登山部だった高校時代、よく山岳競技で八甲田山中を無我夢中で駆けていた頃を思い出す。

ちょうど中学校剣道部遠征から帰ってきた息子をつかまえて、親子で真剣による抜刀(試し斬り)稽古。

庭で一晩水に漬けた畳表を円柱状に巻き、台の上に垂直に立て、いろいろな方法で息子に斬らせてみる。

まず剣道の「正しい基本」で斬らせてみる。

大きな基本素振りでの正面打ちならば、斬れるようだ。

しかし、試合や地稽古で常時多用している、細かく速い「差し面」では、畳の表面に浅い傷がつくだけでほとんど斬れない。

家伝剣術伝書によると実戦では、互いに気が立っているため、軽妙な刀法を受けたくらいでは相手は倒れないものだという。

かつ、相手が複数の場合、ひとり相手に連打している時間はなく、なるべく一触で個々の動きを制していかなければ生き残れないだろう。

すなわち、幕末の弘前藩士達が批判したように「差し面」は、「刀法」としては少し工夫が必要か。

家伝剣術の形どおりに斬ると、ほとんど力感なく面白いように両断できる。

初めての息子だが、巻いた畳表の芯に固い竹を入れたものも、アッサリと両断していった。

おそらく、形の示す所作自体が、小手先だけの打ちではなく、体幹と連動した重い斬りとなるよう設計されているからではないか。

これは、剣道や剣術というジャンルのどちらがいいかという単純な比較論ではなく、「剣の理法」を活かすためには、刀と身体がどのような関係を結べばいいのかという学びではないか。

私は抜刀道の専門家ではなく、ひとつの稽古方法として試し斬りをやっている者にすぎない。

だがおそらく、いくら対象物が斬れたからといって、力まかせで重く身幅のある刀をブンブン振り回し、斬った後は急ブレーキをかけるか、そのまま脱力してしまう技法ならば、すぐに限界がくるだろう。

すなわち、その刀法で演武では見栄えはしても、やがて当人の関節や筋が壊れ、悲鳴をあげるだろう。

またそれでは、居着きの連続で二の太刀への変化が遅くなってしまう。相手はそこを見逃さないだろう。

ならばどうするあか。

竹刀剣道のように、剣を遠くへ伸ばし、放り出しては回収する、を繰り返すのではなく、

剣と身体が常にゆるやかなつながりを持ったまま、ある構造を保ったまま変化し、対象物を斬ることか。

家伝剣術が、なるべく剣を体幹の近くに置くように構えさせるのか、不思議でならなかった。

おそらくその所作は、剣と体のつながりを保たせることを暗示している。

構えた状態、そのままで斬る、腕だけではなく身体全体の変化で斬る、という感覚か。

そのような身体は負担が少ないから、そのまま瞬時に次への変化も可能だ。

普段の木刀による素振りや組太刀のなかでそのような質の動きを錬磨し、試すのが抜刀(試し斬り)稽古か。

刃筋が通って対象物が切断できるかどうかは、その調和の精度を計る尺度でもある。

言うは安く、実行するのは難しいが、探求していきたい。

このような心身の状態は、祖父の好きだった「平常心之道」ではないか。

すなわち剣技だけではない、日常生活のなか様々な毀誉褒貶があろうとも窮することなく、普段の心身がゆるやかに整って安定したまま、悠々と対処していく人こそ「八面玲瓏の身」ではないか。

一世紀以上前に、剣は実用性を失ったが、その特性はいまもなお、木の葉のように翻弄されてばかりの私に、現代を生きるうえでたくさんのことを教えてくれている。

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