林崎新夢想流居合「向身」七本の稽古。

この形では、それぞれ初発刀でどの高さ、相手のどの部位へ抜き付けるのか名七本ごとに異なっている。

それを手順として、頭で考えてやっていたが、覚えられるものではない。

だが、今頃になって自然な流れのなかで、なるべくしてなる帰結としてその高さになる、ということが体感されてきた。

そうなると、最初のスタートボタンを押したら、そのまますべての所作へと作動していくようになれば嬉しい。

おそらくそうなるのだと思う。いや、活きた形とはそういうものではないか。

また、扶据(ふきょ)の座法から三尺三寸の刀を抜くばかりではなく、その身体を活かして、普通の抜刀、つまり常寸刀で立ったまま抜刀する稽古も再検討している。

しかしながら疑問は「右身」の一本目「突入」だ。

幕末の先祖が記したの伝書を読むと、故寺山竜夫師範の伝とは異なる所作が混じっている。

おそらく同じ弘前藩内の林崎新夢想流居合でも、師範家によって、それぞれの剣風があったのだろう。

我が家の方が荒っぽい使い方だが、それはそれで「突入」の初動がスムーズになる。

だが私はまだまだ、己ひとりのうちの所作を練っているだけだ。

それを対人関係の変化のなかで発揮できるのかどうかは別問題である。

よって、伝書にある「心持三段用之事…、サク事、サクモ有」「拍子用之事…、カルイ拍子、一人ノ拍子カル事」などのように、彼我の関係性のなかで発生してくる様々な内観的状態を感得するまでには、どれほどの遠い道のりが必要なのかと思うと、途方に暮れてしまう。それでも、誰かが歩かなくては始まらないだろう。