古剣稽古日誌

古剣稽古日誌

定例稽古。

稽古会を主宰していれば、参加者が多いもあれば少ない日もある。

多い日は賑やかでいろんなアイディアや和が生まれるし、少ない日は少人数で細かい術理までじっくりできる。

たまに見える新しい方。一回だけの見学では終わらず、長いご縁が生まれることもある。

日々好日。

とにかく私の役割は先祖代々、人々が稽古できる「場」をつくり続けることだ。

女子大学生二名に林崎新夢想流居合の手ほどき。

往時の武士たちは最初から窮屈な座法「扶据」(ふきょ)からはじめたのだろうが、生活環境の変わった我々にとってはあまりに過酷だ。

よって現代では、同じ身体操作を立ったままの姿勢でひととおり覚えてから、扶据に入った方がいいようだ。

その際、私の暗中模索から見えてきた現時点での答え、未解決の課題も伝えていく。

つまり、私と同じ無用の迷い道をとおらずともショートカット、すでに発見できた手がかりを共有してもらうことで、その先へ歩いていってもらいたいためだ。

一方で指導しながら、己の内部の微妙な感覚を、なんとか言語化して示そうと、行きつ戻りつ悪戦苦闘している。

そのうち己自身が整理されることで再発見が出てくる。そのうち取捨選択して、立て板に水が流れるように解説できるようになる。

やはり武術、武道は一斉指導ではない。本来のように個別指導が一番いいようだ。

小さな組織の当会だから、自ずと個別指導しかできない。

最初はそれが不足面かと思っていたが、逆に一斉指導式が普及しつくし、教授内容が画一化、平準化した現代社会では、失われつつある個別指導、師資相承こそ求められていることに気づいた。

ことに個々の心身に関する文化や技法は、個々が模索しながら構築していくからこそ、それぞれが自立した豊かな社会になっていくのであり、安易に全国式に委ねきってしまえば、安心と引き換えに、己の存在を他律、ランク付けのなかに拘束されてしまうことも覚悟しなくてはならないだろう。

S先生にお助けいただきながら、学生お二人は見る間に動きが変わっていった。

そして今日はもうひとつ家伝剣術「表」二本目の形。互いに袋竹刀で思い切り打ち込む。

やはり最初からフリースパーリングをやってみても、棒術とはなっても、全く太刀筋が出てこないことがわかった。

一方でやはり木刀と刃引きでは接触する感覚が学びにくい。

当流の所作のなかには、他流でいう「切落とし」「合し打ち」に似た技が散見できる。それを父は剣道高段者相手の地稽古で多用している。

今日は、打太刀である私が、格闘技用マスクに喉への突きを防御するため、野球用のスロートガードを付け足したものを着け、三本指の薙刀用小手(当流独特の手の内を使うため二本指の剣道小手では少々不足がある)、袋竹刀を肩に担ぐような構え「中段」にとる。

九歩向こうに立つ仕太刀は、袋竹刀を同じように構え、手には皮手袋(溶接用手袋でも可)をつける。これは手指が一番ケガしやすいからだ。

そして仕太刀は、少し速い足でツーっと歩みよってくる。

間に入るやいなや、打太刀が斬りかかってくる。

仕太刀は居着いて途中で床に体重を落としてしまうことなく、滑るようにそのまま全身ごと打太刀の正面を、その構えごと斬り割る。

稽古をやって思い出していたことがある。

家伝剣術導入以前、17世紀中期の先祖たちは當田流の師範だった。

「當田流太刀許之巻五」には興味深い教えがある。

その伝書では、当時(江戸期)の剣術が、木刀や竹刀の速さや巧みさを競うあまりに実を失ったと批判している。

そして剣とは心行一致、敵に逢ったら心と動作に少しも滞ることなく、流水のごとく、自然に接近し、身命を投げうって首を股に、骨を肉に替えるつもりで深く踏み込み、敵の鍔元または拳で打たれる覚悟でいくこと。

そうすれば肉は斬られずに利が生じる。この境地は諸流ともに説くが実を知るものは稀である。よくよく稽古せよ。(太田尚充『津軽の剣豪 浅利伊兵衛の生涯』水星舎、2011年)

このような技は家伝剣術のなかでも多用されており、一足一刀の間、触刃の間でいったん立ち止まってからじっくり攻防する現在の剣道とは少々異なる。

実際の戦いでは、一足一刀の間、触間の間、それ以前から攻防が、身体の状態が始まっていなくてはならず、途中でいったん静止することは、それまでの流れをすべてリセットし、失ってしまうことになりかねないからではないか。

さて袋竹刀での稽古。

私は打ち込まれる役割、打太刀であるが、ふだんの独り稽古を対人関係のなかにおとしてみて、かかってくる方それぞれの個性を感じながら、己のあり様、なすべきことをいろいろじっくり工夫できるから面白い。

互いに間合いが詰まって「打つ」の「う」の未発を、身体で感知したら、迷わず打つ。

そのとき自分が打ったのではなく、相手に引き出されて「打たされて」しまっている場合は、よく心身の状態がバラバラだから、接触した瞬間に構造的に弱く、全身が崩されてしまう。

だが、互いに満ちており「自然力」が生まれていれば、互いに崩れることなく整ったまま接触するので、そのままの姿勢でズレていく現象がおこることもある。

その際、素手の体術と違う危険性は、接触した瞬間、互いの生身を、手指を、刀の刃部や鉄の鍔が削っていくことがあることだ。

そのような危険性にも用意する感覚は、分厚い剣道用小手では鈍感になるためわからない。すると技は「防具ありきの感覚」でどんどん過激になっていく。

しかし、生身の身体での攻防の危険性を学ぶならば、薄い皮手袋の方が敏感になれる。

そのほかにも、最近、独り稽古で工夫している構えと斬りをつなぐ身体の構造について試してみたが、面白い現象がいくつもあった。

また最近ランニングで気づた、足裏の骨格の接地状態と尾てい骨あたりの連動があれば、斬りの質もかなり変わるような感じがした。

お教えしているようで、実は私自身の勉強となっていたなあ。

お相手していただいた方々に深く感謝。

稽古で新しいことに気づくと、帰宅してからもまた何か面白い感覚があるのではないか、もう少しやろうかなと意欲が止まらなくなる。稽古というより楽しみに近い。家族はあきれてもういい加減したらというが。

剣道部時代の私は、稽古量は多くとも、ひたすらやらされて、サボることばかり考えていたが、なんと変わったことか。

現代において実用性を失った剣に意味があるのか、という自問自答を越えつつあるような、いやその問い時代が無効になりつつある予感がある。

このような心身の感覚は、もしかしたら剣の稽古だからこそ感得できる特権ではないかと。

それは「日本の伝統文化だ」「サムライだ」という、聞き飽きたお題目ではない。

まだ己の内部で言語化できていないが、稽古の体感を通じて、少しずつ確かに、己のなかで腑に落ち始めている。

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