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林崎新夢想流居合「向身」一本目「押立」。
わたしの稽古は、一般的な居合からすれば不可思議なことが多いだろうな。
居合とは、外見上の姿ばかり重視するものではなく、刀に慣れるためだけではなく、精神論だけでもなく、具体的な武術だったはず。
実際に我が家の先祖たちもこれで藩内の治安を守り、幕末の戦いへ参加した。
古人が残した技が、なにを暗示しているのか。探究している。
まず「押立」。
六尺離れて打太刀と仕太刀が正座する。
やがて独特の礼をして互いに帯刀。打太刀は九寸五分の短刀を差す。
打太刀は、右膝だけ立てたような独特の扶据(ふきょ)という座法に変わりながら、三尺三寸刀を帯びる。
仕太刀は「ドッコイショ」ではなく、天から吊られていくよう「朝日が昇るがごとく」立ち上がり、気配なくいつでも変化できる歩法で、三歩あるいて近寄り、仕太刀の眼前へ扶据(ふきょ)。
このとき己の左膝を、打太刀の両膝の間に入れ、刀の柄頭を仕太刀の左二の腕へつける。
このように互いの身が接触し、交差するほどの近間では、短刀は自由自在だが、三尺三寸刀は全く動けない。まさに抜き差しならぬ危機的状況だ。
「遠間から大きく抜刀するのが居合だ」という方もおいでだろう。
しかし開祖は、この近接した困難な状況を課題として、居合を生み出した。
よって、その原初的な場から目を反らせば、教えの根本も見のがしてしまうだろう。
すなわち、刀と心身すべてが閉塞してしまう、己にとって最も不利な状況で、いかに自在を得るかという稽古だ。
打太刀は短刀を抜こうとする。
その未発の気を感知した瞬間、仕太刀は、右膝を規矩として、三尺三寸の大刀を抜く。
そのとき、相手の左腕につけた柄と我が右手をなるべく前に出さない。
先人達は「六寸の出口」だけだという。その分、左半身が大きく後方へ展開していく。
抜刀時の身体変化は、各部がそれぞれのあるべき方向へ動く三次元的なものだ。
よって筆舌に尽くしがたい。先人達は、速く抜くな、極めて静かに抜いて稽古しなくては、一生手癖が悪いものだと戒めている。
そのようにして緻密に動きの質を育てていき、やがて速さを獲得していく。
また、がっちりと踏みしめたり、力んでいてはかえって遅くなる。間に合わない。
あたかも全身が、足下の薄氷を割らないように浮き、身体各部に潤滑油が通っているように、スルスルと変化していきたいものだ。そうなれば途中変更も可能な身体だ。
全身が展開すれば、自ずと三尺三寸は、相手の胸へと走っていく。
同時に、鞘の鯉口を、左手と左腰で、前方仕太刀の右目(稽古では安全のために右耳)へ突き出す「非打」をする。
その際、鯉口を左手人差し指でふさぎ、その指から曳かれるように突き出せば、気配が消えた速い突きになる。
この所作を「具体的な攻撃だ」と認識してはならない。おそらく違うと私は思う。
なぜならば、これを先人達が「突き」ではなく、「非打」と命名しているからだ。
以下はその理由についての拙い私論。
抜刀とほぼ同時に「非打」を行うことで、初発刀で極端な右一重身になってしまう身体が、自ずと向身(正体)へ、すなわち、どうにでも変化可能な調和状態へ戻る。
かつ、水平に発したはずの初発刀が、非打と連携することにより、自ずと伝書通りの「情けの袈裟斬り」へと変化するではないか。
よって先人達はこの所作を「打つには非ず」といちいち留意したのではないか。
複数の小さな所作が重なりあって響き合って、自ずとひとつの武技が生まれてくる。
まるで様々な色彩を重ねた名画のように。
するとその技は、力の方向がいくつも組み合った複雑な動きとなるため、簡単には止めようがなくなる。
これがスパーリングでは決して得られない、形稽古特有の精緻さか。
さて、初発刀と非打が終わると、仕太刀は三尺三寸刀を頭上に真横(切っ先は左へ)に構え、続いて刀を頭上にまっすぐ上段に構える。
そのとき打太刀は短刀で、仕太刀の喉(または左拳)を突いてくる。
よって仕太刀は突きをさばくため、立ち膝のまま、両足を動かして右斜め前へと身をさばきつつ、打太刀の右肩を袈裟に斬る。
さて、この一連の所作をやってみると、なんとも動けず、まるでぎこちないロボットだ。
例えば、頭上で三尺三寸をわざわざ横から縦へ変化させるのも不可解だ。
それに、これほどの近間で突いてこられる瞬間、立ち膝のまま、地上を移動してかわすなど無理であろう。
試しに袋竹刀で突いてもらえばわかる。面白いように突かれよう。何度天を仰いだことか。
何度考えてもあまりに不可思議な所作で、実際に使えるのかと悩んできた。
ところが二年前のことだ。
北辰堂で代々伝承され、現在は警察官で剣道高段者のH先輩。その方おひとりが伝承者である小舘俊雄伝小野派一刀流剣術併伝の詰座抜刀(これは林崎新夢想流居合をベースにしていると考えられる)をお教えいただき、その同じ所作の口伝を受けたこと。
そして、林崎新夢想流居合師範だった先祖達が記す、家伝剣術伝書のなかの構えの理合(拳と体幹との連携)が私のなかでくっついた。
またもや筆舌に尽くしがたいが、なんとか説明したい。
まずは、三尺三寸刀を頭上で真横から垂直に変化させることについて。
これを分解してはならず、一連の動きとしてやると、古流剣術の巻打ちや衣紋(えもん)斬りのような刀法が出現してくる。
また幕末の講武所師範、田宮流窪田清音がいったという、左から返し反らして打つ刀法も彷彿とさせる。
I先生が若い頃、故寺山竜夫師範に理由を尋ねたら「その方がよく斬れるものだ」と言われたことが重なってくる。
なんとこの刀法は、立って使う剣術の地稽古(自由打ち合い稽古)でもかなり有効なのだ。
続いて、相手の短刀による突きを、立ち膝のままでさばきつつ、袈裟斬りを返すこと。
これを単なる反射神経と脚力でやろうとすれば、無理である。
相手は数十センチ片手の短刀を伸ばすだけ。簡単に突かれてしまう。
どだい竹刀ならばいいが、真剣において、直線の突きに対して直線で対応しても相討ちだ。(だから、剣道で合い面が得意だった私は、武技としては中心を理解するための便法を稽古していたにすぎず、「本当の打ち合いで大丈夫なのか」と幼い頃からの疑問だったのだ。)
では、いかにこの課題を解決しつつあるのか。
現在の私は、身体全体でさばくための推進力として、頭上で刀を真横から垂直へと変化させる所作のなかで発生し、全身を包んでくる大きな流れを使う。
かつ、目の前からの突きを封じつつ、相手を袈裟斬りにするためには、
その太刀筋の構造に、三角(みすみ)の規矩(かね)を載せることで対応している。
三角の規矩は、扶据の座法、家伝剣術「生々剣」、近現代剣道の中段の構えなどでも共通しており、攻防一致を可能とする優れた理合である。
かつ、浮身と沈身でその斬りに体重を載せてしまえば、相手は構えごとつぶされていく。
これらの工夫により、短刀の突きを受けずに袈裟で封じることにおいて、焦ることなく、逆に相手の突きの構造を利用しながら、我が構造を成立させるような感じとなり、かなりラクになった。年老いて脚力が衰えてもできそうな予感までしている。
この後の納刀のやり方は割愛したい。
こうやっていると居合における美は、背筋が伸びているか、刀の角度は何度かというモノとしての外見の問題ではなく、もっと機能的なものとなってくる。
以上の実技はまだまだ拙いレベルだが、9月19日の「全国古流武術フォーラム2015-林崎甚助の居合を求めて-」では参加者みなさんにも体験して楽しんでいただき、アドバイスやご意見も頂戴したいと思っている。