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古剣稽古日誌

古剣稽古日誌

「全国古流武術フォーラム2015」が終わってホッとする間もなく、

10月4日(日)茨城県鹿島神宮で行われる「鹿島神宮奉納日本古武道交流演武大会」出場にむけ、父と木刀で家伝剣術切組(組太刀)の稽古。

昨年と同じレベルのままで情けなや、少しでも上達した技を奉納したい。

暮らしのなから、少しずつ工夫していくしかない。

我が家の組太刀は、最初から「うまくカタチに合わせよう」という稽古はしない。

家伝の定型を守るが、打太刀、仕太刀ともに人間本来、その存在自体が常に揺れ動いているものなのだから、無理にそれを固定化すれば居着き「死に体」になる。それは武ではない。

そのときそのときに最も適確な動きをする、判断を誤らないのが剣の稽古だと父は説く。

だから、いままで同じ形を無数にやっても、全く同じ動きができたことがない。

ときに判断を誤れば、素面素小手に木刀の直撃をくらってしまう。わたしはよく失敗をする。

下がる間合いの見切りが一瞬甘かったので、父の木刀で拳を強打され、グローブのように腫れたこと、

すりあげようと打ち合った瞬間、私の木刀だけ真っ二つに折られて飛んで行ったことも。

今日も失敗だ。

稽古の途中、後の先をとるべき私が、先に動いてしまったので、思わず父はそれに反応して、私の動きを追尾して打ってきた。いつもと少々異なる、袈裟気味に変化した太刀が頭上から降ってきたのを感じた。

反射的に木刀を上げて頭部を守りながら、斜めの構えでその軌道をずらして流そうとしたが、わたしの構えの構造が弱かったため、打ち負けて前頭部左側に木刀を思い切りくらってしまった。

少し頭の中まで響いたが、そのままでいれば次の技を受けてしまうから、すぐに痛みを強制リセットして続けた。

木刀でよかった。これが真剣ならば私は命がなかった。

刃引きや真剣だと危険すぎて実際にあてる感覚がわからないが、木刀稽古ならば、危険と安全のバランスがちょうどいい気がする。

確かに木刀は、遠慮しすぎると「踊り」になってしまい、変化する実際の攻防には適用できないが、稽古を積んでくると、すこしぐらいならば当たってもなんとかなる技量となる。

相手の呼吸に我が身をピタリと寄り添わせながら、ギリギリで当るように当てない、または当て止めでやると効果が出てくる。

先人たちはよくよく考えて木刀を発明したのだなあと、いまさらながらに感動する。

対照的に、防具をつけた竹刀稽古になると、他武道に比べてケガがなく、ほぼ無痛に近くなるから、遠慮なく、思い切り打ち込んで自由攻防ができる。それで学べる特有の理合がある。

しかし安全にあぐらをかいてしまえば、現実を見誤る。

すなわち、いくらかすっても、なんど直撃を受けようとも、そのまま気づかず平気で稽古を続行してしまう。そのうち「少しくらいなら、かすらせておいていいから、こちらは一本をとろう」という、競技しかできない戦略まで出てくる。

「少しでも当たれば取り返しのつかないことになる」という、武特有の危機察知能力、危険にいかに対応するかという感覚がおろそかになる。

それでは実戦になったとき、大きな誤りをすることになるとは、千葉周作や我が家の伝書も指摘しているところだ。

庭に出て、作晩から水に漬けておいた畳表を巻いたものを立て、久しぶりに真剣で抜刀(試し斬り)の稽古。

なんと私は下手くそなのだろうか。私は抜刀専用の刀を持っていないので、普通の刀でやっているが、それにしても未熟さを痛感した。

これでは単なる薪割りだ。武ではない。もうやめようかとすると発見があった。

力まかせに斬るとますます斬れなかったのが、

刀の重さに全身が全く遅れずに引かれていくこと、その際、両脚は地面につっぱらないこと、両腕と背中、ハラなどの互いの位置が整って響き合って調和していること、

斬りは遅くとも、身体内部の調子が、間欠や切れ目なく、流れるように動いているとき、

ラクに対象物を両断できているようだ。

このような整い、間欠なく流れ続けている武技こそ、心身こそ、有効であるという実感は、剣のみならず、日常生活の我が身の在り様まで省みることにつながる。

一方で、このように危険な武具で稽古していると、粗暴になるどころか、逆に普段の生活のなかの危険にも人一倍敏感になり、いかに安全に扱うか気になり始めるのが面白い。

例えば、近くで草刈りをしていた母の鎌の持ち歩き方が「それでは危ないなあ」と気になったり、畑に無造作に立てている竹竿の先端が誤って突き刺さらないかと、直しはじめたり…。

この感覚は単なる神経症かと思っていたが、ふと、武の社会的効能だったのではないかと思った。

すなわち、社会の範たるべき武士たちに求められた重要な職能のひとつが、

危機や災厄をいち早く察知し、向き合い、回避させ、鎮めることだった。

すなわち、為すべきときに、為すべき場にいて、為すべきことを為す存在であることだった。

武や剣の稽古は、そのための心身を涵養する行為だった。

そのことは、いまを生きている我々にとっても、同じではないだろうか。

わたしたちは、己に与えられる場や役割を選ぶことはなかなかできない。

それでも、日々の暮らしのなかで、他人からの強制や命令ではなく、自らの内なるところから、いつの間にか目の前に、為すべきときと場が、提示されてくることがある。

それに向き合い粛々と、己の為すべきことを為していくことが、世の中ともに、その人の存在自体をさらに強く活かしていく気がしてならない。

反面、己の怠慢や卑怯さで為すべきことができないことも多いものだ。

しかし、為すべきことからの逃避ばかりでは、己自身は希薄となり、よどみ、魔が生じていくだろう。

やがて自ら敗れ去る。

私自身、猛省することばかりだな。

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