近年は、われわれ日本人の暮らしのなかにイスやソファ、テーブルが多くなり、往時のように板の間や畳のうえで起居する生活が少なくなった。

私は後者の暮らしで育った。学校ではイスだが、家ではいつも正座で食事をしていた。

いまでもソファに違和感があるくらいだから、日本人体形で足も長い方ではないのだなあ。

しかしそのような、床に直接に座ったり立ったりする生活は、いつの間にか、精妙な全身の連動を養成するものだったのではないか。

先日、家内が茶道の集まりから帰ってきて、いつもより大勢のお客の点前をして座ったり立ったりしているうちに、全身筋肉痛で歩くのもキツイと笑っていた。

それを聞いて、明治期に来日した欧米人のなかには、畳に正座したり、立ち膝などで移動する日本人を見て、曲芸のようだと驚いた人々が少なくなかったことを思い出した。

現代でも美しい起居をされる方がいる。

ここ二日間、博物館資料借用で、美術品輸送専門業者の方々に同行したが、そのなかの熟練の年輩者の動きに感銘を受けたのである。

彼は、床に柔らかい毛布を敷いて座り、縄文土器等が壊れないように、ひとつひとつ和紙などで丁寧に梱包し、箱詰めしていく。

資料の大きさやかたち、材質によって作業内容が千変万化する。それに合わせて何度も立ったり、座ったりを繰り返す。そのなかで様々な姿勢や座法が次々と出現する。

剣道や居合道、あるいは茶道にも起居を伴う作法がある。しかしなかには、たとえ手順通りでも、本人が不要に力んだり、動きそのものが重く、居着いてしまっている例も見受けられるものだ。

だが彼の起居は、身体のなかが流れており、立ち上がるときも地に座るときも、重さが消えて軽やかである。

しかも様々な状況に対して、体幹をねじることなく急変する。ほかではあまりみない見事さだった。

彼は、予定調和の定型フォームを繰り返しているのではない。それでは仕事にならない。

むしろ、様々な状況へ臨機応変の対応を迫られるなかで、自ずと所作が、身体が、磨かれ、精緻になっていったのではないか。

おそらく前近代の人々もそうだったのではないか。同じ形でも、日常の実地とつながって、変化に富み、活きていたのではないか。

思わぬところで見事な動きに出会えた。こちらもインスパイアされてくる。

例えば立ち方について。五輪書や家伝剣術伝書が説く首や肩などのあり様が、また違った面から気づかされてきて、身体の重さが消えてラクになり、立つのも歩くのも身をさばくのも、かなりスムーズになるポジションがあるだろうこと。

そして家伝剣術の口伝で、なぜ膝に注目させるのかということ等。

身体とは本当に深くて面白いものだ。