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古剣稽古日誌

古剣稽古日誌

お陰様で弘前城跡での「卜傳流 武士育成ツアー」が終わった。

主催たびすけ社をはじめとして関係各位には深く感謝申し上げる。

私は本当に拙い講師であったが、国内外から参加者していただいた方々にとっては、普段体験したことがない珍しい内容であり、楽しんでいただけたようだ。

私にとっても大変貴重な体験が続いた。

なぜか。

整備された室内や競技場ではない、野外かつ不特定多数の人混みのなかという変化に富む環境のなかで、帯刀して歩いたり、稽古するだけで、

平らな板張りの道場内だけでは絶対にわからない現象に出会い、たくさん気づかされるからだ。

やはり家伝剣術は、室内競技ではなく、まさに天地の間で生まれ、実際の生活で使われていたのだ。

まずは起伏のある場所での足遣い。

現代武道で多用する「すり足」や「送り足」は、ほぼ使えなくなる。

すると、すり足や送り足を「土台」として組み上げられた武技、剣の操法も崩壊していく。これは幼稚園の頃から体験的に感じていたことだ。

たとえば、草原は昨日までの雨で濡れた落ち葉が散乱していた。

私はそこで家伝剣術組太刀をやり、己自身、剣を突きあげた勢いでスライディングして尻もちをつくという失態を演じた。

未熟者だ…。滑る場所では両脚一緒に動かすなという家伝の意味を痛感させられた。

そして、よく言われるように、太陽を背にすることの重要性。

また帯刀して、不規則に流れてくる人混みのなかを歩いていくことは大変勉強となる。

家伝には、往来をいかに歩いていくか、群集のなかをいかに通っていくかという教えがあるが、それを実地で稽古できる。

最近は、男も女も若者も壮年も、「間合い」にあまりに鈍感な方が多くなった。

たとえ広い場所であっても、平気で他人のすぐ目の前を横切ったり、ギリギリですれ違っていく。

家伝剣術や密着した間合いで稽古する林崎新夢想流居合の感覚からすると、不用意に近づいてくる他人がいるたびに、この間合いは、位取りは、どうして不快に思わないのか、といちいち気になってしまう。

見知らぬ他人へ密着していって違和感、危険さを感じないのは、平和な社会である証拠か、生物としての本能、センサーが鈍っているのではないかと思うことがある。

ともかく、人混みでは、人や環境からいろんな変化の兆しを感じる。

いつなんどき、どんな変化があっても応対できるか、といえばなかなか難しい。

例えば、試合競技では、最初に均質な場を設け、開始線に蹲踞し、審判の号令で闘争をスタートさせる。

それはそれで養成される心身があるのだが、実際の戦いはそうはいかない。

ときと場、機を主体的に発見し、創造しなくてはならない。

すなわち、相手の存在を認知し、縁を結び、その関係性が戦いになるのかどうか、その機が満ちるのを、到来するのを、他人まかせではなく、己自身で察知しなくてはならない。

これは試合競技のように、第三者が、場とときを管理して明示してくれる人工世界とは全く違う難しさだ。

ときには、戦いでありながらそのような様相を見せずに進行していたり、終わっていることあろう。

それとともに、いまこのとき、自分の身の回りにあるものすべてをいかに有効的に活かすか。

これらはすべて、古伝の剣術が、武術が、歴史のなかでで無数の実地体験のなかから理を発見してきたものであり、近代に武が競技化したときに割愛し、失ってしまった豊かな技法ではないか。

これは戦いばかりではない、日々の人間関係にも通じよう。

現実世界は、あまりに多様かつ複雑精妙だから、試合チャンピオンが必ずしも現実世界でも強者になれるとは限らなくなる。

特に「(特定の)競技ルールに通暁し、ルールを活かして戦うタイプ」ほど他の世界へは通じなくなる。

すなわち現実の武では、日々の暮らし同様、その人の人間としての総合的な力量、ルールを越えたより大きな世界のことわりにいかに近づいているか、という深さこそが、重要となってくるのか。

まだまだ修養しなくては。

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