正面を向き合い、ノーガードで思い切り打ち合い、接触の速さ競うこと。

競技としては意味があるのだろうが、実際の武技としては問題が多い。

なぜならば、それは刀の怖さを、生身の肉体のもろさを知らないからこその行為だからだ。

また、しっかりと打突しようと力むことにも問題がある。

刀剣の場合、逆に刃筋を狂わせ、片刃で反りがあるという刀本来の構造的特性を封じ、実際の経験智から紡がれた古い形が暗示していることを濁らせ、打ち消してしまう。

おそらくそれは、稽古のなかで実際の刀剣を使わなくなったからだ。直線の棒状の操作へと特化してしまったからだ。

やはり道具は、技術のありようを導き、規定している。

稽古のなかで、力むことが必ずしも武技の効果につながるとは限らず、無意識の行為が逆に大きな効果を生むことがある。例えば家伝剣術小太刀「裏」さばきと体当たりのように。

これは、我々が強く願うことと、外界への影響力が必ずしも一致するとは限らないという興味深い事実を教えてくれているのか。

剣が実用性を失った現代において、目の前のひとりを相手にして、試合や稽古での勝敗に一喜一憂する青春時代だけではなく、その背後にある現象世界全体の仕組みを体感し、みつめていくことが、現代を生きていくための力へつながっていく。

そうすれば、廃刀令で武具としての役割を失った剣は「明治維新後の無用の長物」ではなくなる。現代においても活きている法器となる。

その際、他人が考えた制度的なお題目をそらんじ、そこからはみ出さないよう、己の心身をひたすら躾けていく学びだけではさみしい。

そのような心身は、制度に依存し、囚われ、他者は許さぬ固陋な存在となってしまう。

本来の稽古はそうではない。自らが直面する現場から、自らが直接に汲み出していく智。

だからこそ、往事の武士たちは、たったひとつの方法だけではなく、それぞれの現場と生き様から、多様な流派を生んだのだ。

実家の古い広間には「心剣一致」という古い扁額がある。子どもの頃は竹刀剣道の朝稽古が嫌でそれを仰ぐたびに「剣は心なり、心正しから ざれば、剣また正しからず。剣を学ばんと欲すれば、先ず心より学ぶべし」(島田虎之助)といって、ひたすら礼儀正しくさせるためのお題目だと辟易していた。

だが、いまになってその言葉の重さが響いてきた。

実際の稽古のなかで、自らの心身が、目の前の現象の変化、剣の変化と一致、一体化できているかと問えば、ひどいレベルに愕然とする。

物心つく前から40数年も稽古してきても、自我が強くて居着くばかり、恥ずかしくて消え入りたくなる。いや、まだまだやるべき課題があると喜ぶべきか。

このような、私が稽古している古流世界だが、すっかり巷からは忘却されてしまっており、現代社会の様々なフォーマットのなかで登録されていない。つまりその存在すら認知されていない場合が多い。むしろ後発の新しい「伝統」武道から異端視されることもある。

10代の終わりころから、その状況に焦りを感じ、あたかも自分自身が目の前の世界から除外されているかのように悩んできた。

だが、それはわたしの勘違いであったなあ。

それは生物学や昆虫学の研究者と話していて気づいた。

この世には、未登録、未知のまま現実に存在してきたモノやコトが無数にあるのだ。それは人の文化、技芸、思想、哲学もそうだろう。

登録されずとも世界の一部である事実に変わりはない。それらは堂々と世界のなかでそれぞれの役割を果たしている。むしろ人間の認識の狭さに気づくべきか。

様々な異なる分野や世界にもまれながら、新しい命を獲得し、過去から未来への法灯をさらに豊かにしてきたい。

だがそのなかで、当代の価値観に認知されるかどうかは副次的なことだ。

むしろそのために自らをいびつにしてしまえば、法灯はこの時代のみで消費されて終わってしまう。

なにより己自身がこの法器によってどれだけ深められたか。個人を超えて次世代へ何をパスできるかどうかが一番大切だ。