来年夏以降、刀剣に関する特別展をやりたくて、いろいろ草案を練っている。

これを機会に、日本刀とその文化について、構造や製作過程、鑑賞法、成立と歴史的変遷過程、現在の社会的状況までとことん再勉強するぞ。

まずは、日本刀の成立史について、考古学の発掘とX線分析による近年の研究動向から、日本刀独自の形態が生まれた背景、それ以前の上古刀や蕨手刀との関連性について勉強している。

そんななか、高名な「刀禅」の講習会に参加し、大いに勉強させていただいた。

楽しい懇親会では、我が家の剣術「生々剣」、日本刀についての様々なお話を拝聴できた。

「日本刀」という、高度に洗練された器に沿うようにするほど、その身と技は、自ずと整って精度が高まていく、というようなお話に深く共感し、己の内側の推論がさらに深まった。

深く感謝申し上げます。

以下は、それに関わる拙論である。

わたしたちはよく「刀剣」「日本刀」イコール「伝統」「日本文化」「武士の魂」であるとし、その稽古は「精神修養」「人間形成」になると断定し、思考停止となってしまう。

あとはシゴき、「稽古がツライ」といえば「苦しさを乗り越えたときに…」と説いて沈黙させる。

実は「何のために苦しむのか」その説明は誰もできない。

私が幼かった頃も、現在の子ども達も、稽古の喜びを教えてくれる師匠は、非常に少ないようだ。

ともかく、なぜ「人と争う」「戦い」のために生まれた武具を使えば、「人間形成」となるのか。

かつ、刀剣が不要となった現代社会において、なぜ刀剣で稽古するのか。

そして礼儀作法や根性ならば他の種目でも充分学べるのに、なぜ「刀剣」なのか。その独自の人間形成効果とは何か。

現代社会において、それに関する公式見解や明確な論理的説明はあまりない。

それらしき言説ならば幾つもあるが、頑迷な私にとってはどれも腑に落ちなかった。

そのまま平然と稽古し、学校でも指導した。居心地が悪くてしょうがなかった。

近世の先師たちならば、刀剣を帯び、実際に使用することが当たり前の時代であり、それがそのまま職責だったから「民治」のためと書き残して迷いはない。

だが、いくらその子孫でも、現代人である私はそうはいかない。

よって、刀剣や剣技に憧れをもつ方を見るたび、それを伝承してきた家に生まれながらも、その意義を明確に説明できない己が後ろめたかったのである。

「伝統」を単なるホビーにしてしまうのではなく、現在と未来へ活かしていくためには、先人の業績に依拠するばかりではなく、いまここで新しくコトに当たることだ。

すなわち、先師たちがそれぞれの時代のなかでやってきたように、いまの時代においても、我々が新たな意義も見いだし、創出していかなくてはならない。

では現代における刀剣の稽古は何を導いてくれるのだろうか。

何度も書いた拙論だ。

道具は、それを上手に使おうとするほど、その特性が、使う者の心と身体の有り様を導く。

平安期に成立した日本刀は、それ以前の直刀や、竹刀稽古が流行った幕末のまっすぐな竹刀を模したような刀剣とは異なり、反りがある。

なぜか私は直感的に、そのような反りが強めの刀剣が好きだ。稽古刀もそうである。

刃筋が、途切れず居着かずに、水のようにゆるやかで長く強靱なカーブを描いて流れている。

その特徴的構造は、操作する者、それと一体になろうとする者にも同じことを要求してくるだろう。

よく「反りが強い刀剣で稽古すれば腕を痛めやすい」というのは疑問だ。その原因はおそらく術者が刀の構造を無視して、棒で叩くように操作しているからではないか。

おそらく日本刀の反りは、そのような遣い方を要求していない。

すなわち、一点一点に囚われて自縄自縛となるウツ状態ではなく、流れ続け、居着かない心身とならねば、日本刀の構造的特性を引き出すことができないのではないか。

居着かない心身とは、剣などの武技だけではなく、禅学なども説く、日常を闊達自在に生きていける、高度な心身だったのではないか。

ふだんの私に最も不足していることを、頭だけの理屈を超えて、自らの身体から直接に納得させられてしまう稽古ならば、なんと愉快なことであろうか。

そのとき歴史的武具は、いまも活きる法器となるのだろうか。