愚息は中学校剣道部員だ。

その話を聞いていると、自分の中学生時代を思い出すとともに、変化も感じることがある。

子どもの頃の私は、家伝剣術よりも竹刀剣道稽古が多かったので、人より早く始めた分、試合ではあまり苦労しなかった。

だが息子は逆に、竹刀剣道のみに特化させず、多彩な身体を養うよう、家伝剣術や古流居合、真剣による試し斬り、柔術、槍や棒、現代格闘技など様々な武術・武道を経験させた。

効果は意外なところに表れた。

学校の体育の時間。柔道の簡単な乱取りがあった。

すると同じ剣道部の強豪だけでなく、クラスの男子みんなを組み伏せてしまい、先生や友達に驚かれたそうだ。

しかし竹刀剣道には、なかなか慣れないようだ。

見ていると、先をとって打つのが相手より速いのだが、剣術式の歩み足が抜けないため、剣道の有効打突として認めてもらえない。

ならば、じっくりと直せばいいのだが、現代の一般的な学校剣道はどこでも、対外試合や遠征が多く、各自の基本をじっくりと修得する時間が少なくなっているそうだ。

私の時代とは変わったのだ。

よって、自学自習しかないと、剣道教士八段の祖父が構えや攻め、呼吸について、

そして私が毎日5分、剣術用の袋竹刀で、剣術の理合で剣道にもつながる理合いを教えた。

すると、対外試合でいきなり連勝して上位に食い込み、まわりの友達たちから「人が変わったようだ。ゾーンに入ったのではないか」と驚かれたという。

また、合同練成会に、全国大会で活躍された高名な剣道師範がおいでになられたという。

冒頭の講話では紳士であったが、稽古になると、まるで人が変わり、やくざ者のような口ぶりで驚いた。「お前ら、この程度で苦しいと思うなよ!」

私もそうだったが、一般に剣道稽古の現場では、理合が教えられるよりも、とにかく気合や根性が叫ばれる。

先生は大声で生徒を威圧し、生徒同士も威嚇しあう荒れた雰囲気となることが少なくない。

そして「この雰囲気が、日本伝統武道だ」というカタルシスも出てくる。

私もそんなときがあった。確かに若い頃は旺盛な気力を養うことも意義がある。

だが、大人になっても一生それではどうだろう。

そのような雰囲気は、実は武士文化ではなく、近代軍隊生まれではないだろうか。

例えば今日、稽古仲間 外崎源人と、林崎新夢想流居合の立ち居合(組太刀)を稽古した。

袋竹刀や木刀、刃引き刀といろいろ変えてを試したが、

刃引き刀を打ち合わせるたびに、気合と根性という感情だけで、もろい生身の人間の肉体が、この鋼鉄の刃に対抗できるものか…と感じてしまう。

特に、剣道では「鍔迫り合い」のような密着した間合いになれば、いったん攻防の流れが止まるような感じがあるが、実際の剣の場合では止まれない。

この居合の技法でも非常に恐ろしい状態が続き、互いの身体を包んでいる刃同士が、止まらずに巡って変化していくので、寒気がする。

外崎氏の亡き居合道師匠も、鍔迫り合いになってからの体術を教えてくれたという。

実際の剣技は、深く冷徹に研究された緻密な身体操法、術理の裏付けがなければ、とうてい生命がなかったはずだ。

往時の武士達が見出した技とは、そのような存在だったのではないか。

刀剣の恐ろしさ、触れたら無事では済まない、取り返しがつかない、という切実さがあるからこそ、わたしたちは、ひと太刀ごとの質を深く考えざるをえなくなる。

身も心も深くならざるをえない。

ところが、何度当たっても無事となれば、そのような探究は生まれにくい。

そのうち、回数の多さ、運動時間の長さ等という本来とは異なる新しい指標が生まれ、それとともに、気合と根性、捨てきって遠間から打ち込めなど等、という神話が大きくなっていったのではないか。

私は、盲目的な気合や根性、権威主義で忘れられてしまった、この世界の深さを取り戻したい。