青森県内の各集落では、現在でも生活のなかでシャマニズムが伝承されている。
岩木山赤倉沢では、近代以前から鬼神を信仰する巫者達が活動している。
学生時代フィールドワークに入ったとき、女性信者達が「いっしん!(一心)」と唱えながら修行していたのを何度も目撃した。
そのときは他人事だと思っていた。
しかしその文言が、我が家伝剣術伝書にも登場することを知らなかった。
「いかほど策理を極めたりとも、一心違う時、勝利無し…」
いまその教えの重さをかみしめられるようになった。
例えば袋竹刀での稽古。
当会外崎源人が、袋竹刀「源悟刀」をまたまたバージョンアップされた。
さっそく我々は稽古に導入。
素面素小手のまま、家伝剣術組太刀で、遠慮なく存分に打ち合える。
すると、木刀で寸止めしていたときには気づかなかった、様々な現象を体験できる。
何度も言うがこのとき、竹刀剣道のように、いかに相手より速く、相手の身体そのものを直打しようとすれば、生身の体の場合、全く無事ではいられない。
相打ちか、すぐさま敵の後太刀をくらう。棒でも同じ危険性がある。
それでは、触れたら大変なことになる刀剣の技法とはいえない。
だから、現実の武では、常に攻防一致、斬りに防御が一致していることが必要不可欠となる。
相手の拳に目を付けるのは諸流も同じだが、実際はその拳だって常に変化しているのだから当たるわけがない。それだけではやはり相打ちとなる。
よって拳などの相手の身体部位に目付していながら、実際に打つのは、彼我の変化と攻防が接触し、縁が生じている最先端、常に流動し、眼には見えず、手に取って説明することはできない無形の空間を打つことになろう。
特に太刀筋が安定していない相手ほど、難しいことがある。
その予測できない余勢を受けることなく、完全にその太刀を斬り防ぎ、封じてしまうには少々工夫がいるものだ。
さらにそのとき私は、疑心暗鬼のため、不確かで柔弱な打ちを繰り返してしまう。
先師曰く、それでは、生死の場で気が張っている相手は、全く倒れないものだという。
必要なときに的確なことを為せるか。
私には「一心」が求められている。
それは稽古だけではなく、日常生活そのものもだ。