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古剣稽古日誌

古剣稽古日誌

新年からいろいろ忙しい。
こんなにつましい我が人生でさえ、やらなくてはならないことが次から次へと出てくる。
若い頃のように己ひとりのことだけ考えているわけにはいかない。
家族や一族のことも大事にしながら、己の仕事も研究も稽古もやるのだ。
面倒だと溜めていけば、やがて淀んだ水、魔が生じてくるものだ。
心身が腐り、自らを認められない状況では、その稽古も武技も腐っていく。
だから能力の有無や成否はともかく、ひとつひとつ真正面から向き合っていくしかない。
やるだけやるなかから、肯心みずから許し、清流が生まれることもある。
忙しいと独り稽古しかできなくなる。だがそれは、いつでもどこでもできるから便利だ。
しかし独り稽古は、閉じた「独りよがり」へと陥りやすい。
開いていく稽古にするにはどうしたらいいのか。
私の場合、その規矩はやはり刀か。
刀は無生物だから、こちらの言うことをきいてはくれない。その特性は不動だ。
いま流行りの刀剣ムック本で、いまをときめく若い俳優達が「殺陣とは違い、重い日本刀は振り回せないものだ」とコメントしていた。そのとおりだ。
ブンブン振り回したいと思うのだが、そうやって「おれの言うことをきけ」とグッと握りしめてしまうほど刃筋が立たなくなり、刀の特性が封殺され、刀と争う我が身体も居着く。
よって、ゆるぎない存在である刀へと、我が身を合わせていくしかない。
柔らかく持つ。すると刀と我が身が喧嘩しないから、刃筋は自ずと立ってくる。
そして刀の切っ先から柄頭までの途切れないひとつの流れを意識する。
すると、なぜか刀と我が身がゆるやかにひとつに結ばれて、喧嘩しなくなることが出てくる。
そのままで、動き続けられるか。
とやれば、たとえ稽古相手をつけずとも、かなり難しくて、予想外の現象も多発するから、己独りでありながら独りよがりを許されない、濃密な稽古ができるようだ。
そんななか息子と映画「スターウォーズ:フォースの覚醒」を見た。
私も小学生の頃から楽しんできたこの映画のベースには、日本の武家文化があるという。

(ちなみに当会外崎源人氏は、ディズニーおよびルーカスフィルムからの依頼で、スターウォーズねぶたを製作したメンバーのひとりである。VIPや芸能人とともに事前の特別試写会にも招かれたという。)

だが、ジェダイによる剣(ライトセーバー)の礼法(?)には首をかしげる場面がある。
刃部を相手に向けて渡すのは、日本の武士では考えられない。危なすぎる。非礼だ。
心得がある者ならば、剣側をつきだそうとした瞬間、抜き打ちにされるだろうに。
案の定、ハンソロは…。
実際に刀剣類を、身体を通じて扱ってきた実感や伝承があるかどうかということなのかな。
つまり、いかに武器であろうとも、その文明のなかの文化として歴史的に根差している器物ならば、戦闘時だけではない、平時や日常時の扱い方まで成熟しているはずで、それすべてが混然一体、セットとなっているのではないか。
逆に、我々日本人は銃器について妙な錯覚、表現をしているに違いない。
(追記)
1月23日、東京における林崎新夢想流居合研究稽古会だが、お陰様で多士済々、様々な経験をもたれる方々からお申込みいただいている。得難きたくさんのご縁が生まれる。非常に楽しみである。また複数のメディア取材もいただけるようで大変光栄である。
一般とは違い、こんな居合の稽古方法もあったのかと驚いていただけるような内容もあるかと思う。
稽古を楽しむ会なので、経験の有無にかかわらず、ご関心のある方はどなたでも歓迎する。

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