武道史研究では「戦国末期に生まれた武芸流派は、平和な近世において実戦経験を失い、形をなぞるだけの華法剣法と化した」とよく説明する。
本当だろうか。実例で疑義を呈したい。
江戸時代から近代まで数百年間、津軽地方各地には「喧嘩ねぷた」「ねぷた喧嘩」という年中行事があった。
いまでは平和な夏の風物詩となったねぶた、ねぷただが、かつての血なまぐさい歴史については、みなさん口をつぐんで語らないから、私は研究してきた。先祖達も参加していたからだ。
(詳細は拙論「喧嘩するねぷた・ねぶた」(http://kyodokan.exblog.jp/i38/毎日新聞等にて連載12回を参照)
それは、ねぷたを運行するだけではない。武士や町人たちが、木刀や本身の刀槍で武装し、投石や乱闘をして他町のねぷた本体を壊し合うのである。
特に武士層が住む弘前城下では、エスカレートすれば殺傷行為となった。
だから往時の津軽は、若いときの傷を隠している老人たちもいたという。
暴徒の勢いは物凄く、大正期には止めに入った警察署が襲撃されて壊滅している。
敵味方と投石が入り乱れる乱戦のなかで、言動一致の立派な振る舞いができる者が、皆から「一人前の男」としての信頼を得て、リーダーとなった。
当家の親戚もそれで認められて政治家になったそうな。
混乱のなかの運命などわからない。たとえ普段腕が立っても一瞬でやられる者がいる。
よって見えない戦況の変化を、己の肌で敏感に感じ取って動くことが、個々の人間の生死の狭間となった。その感覚は近代戦争への従軍でも活路を開いたという。
このような弘前城下における大規模なねぷた喧嘩は、公式記録では、父が生まれた昭和9年で断絶したというが、他の地方では小規模ながらも第二次世界大戦後まで発生していた。
そこではもちろん津軽の武芸流派たちも使われていた。
道場の若者たちのなかには、ふだん道場では経験できない「実戦」を体験するため参加する連中もいたのだ。我が家も代々参加していた。
明治の公式記録で最も凄惨な「北辰堂襲撃事件」では、わが家伝剣術卜傳流が用いられた。
ライバル陽明館の夜襲を受けたとき、わたしの本家筋で卜傳流剣術・林崎新夢想流の師範だった小山勝次郎は、北辰堂長として、みんなと犬鍋を食っていたという。
彼はまず子供たちを逃がしてから、青壮年の仲間を鼓舞し、身の回りの真剣や木刀をつかみむかえうった。
仲間たちは斬られ指を落とし、早稲田大学から帰省中の藤田氏は、真剣で頭を割られ死んだ。
そのなか勝次郎は単身、敵の集団へ三度斬り込んだが、傷ひとつ受けずに、敵勢を追い払ったという。
このような実戦経験は当流だけではないはずだ。
同じ北辰堂では小野派一刀流も稽古されていたし、ライバル道場に當田流、本覚克己流和(柔術)があった。
すなわち津軽の各古流も同様に、近世から近代にかけて毎年、このような実戦経験(対多敵、異種武器という現代武道では想定していない小規模な白兵戦)を重ね、稽古に活かしていたことだろう。

また実戦経験は幕末の戊辰戦争でもあった。私から4代前の弘前藩士小山英一は、卜傳流剣術と林崎新夢想流居合の師範家であったが、明治初期の北海道で、有名な土方歳三軍と戦い、恩賞を得ている。
現代では剣道大会セレモニーにしかすぎないと思われ、試合に夢中な若い剣道家も関心を示さない古流だが、
その素朴で不可思議にもみえる所作のなかには、我々現代人が体験したことがない、想像を絶する記憶、近年まで蓄積されてきた無言の実戦経験が埋め込まれていることに、我々は気づいているか。
それを見とれない我々の視座そのものに原因があるのではないか…