その土地ごとの地勢や風景があり、そのなかで熟成された方言、食べ物、祭り、暮らしの姿があり、それらの個性が讃えられる。
しかし武術・武道については、そうではないようだ。
その土地ごとの歴史的個性、独自の技法をかなぐり捨て、全国統一のスタイルへと合わせて改変することが「素晴らしい」と考えてしまっている師範も少なくない。
(同様の行為は、地域の民間信仰を、無理やり神社神道式の神名に変えてしまう神職の姿を彷彿させよう。)
そのような修行者ほど、古流を、単なる「権威づけ」か、セレモニー用としてやるだけで、それを本当に遣える技法として、本気で工夫、研究しないことが多い。
それを見るたび、同じ世界にいる者として甚だ情けなく思うのだ。

なんのための稽古か。よくそれで迷わないものだ。古流を愚弄しているのではないか。そのような中途半端な覚悟ならば、最初から古流などやらないことだと。
ともかく、我々の生が、暮らしがそれぞれ異なるように、武のありようもそれぞれ異なっていいのに、なぜ武だけは、全国平準化が好きなのか。
目の前の現実を生き抜く知恵や技法とは、我が身で発見し熟成していくものであり、全国統一方式などありえない。いやむしろそのような無個性の借り物のような方法こそ、実際にそれぞれ異なる現場では使えないことが多いだろう。
では、なぜ統一したがるか。
おそらく、近代以降の中央集権国家の整備にともない、個々の生命を守り生き抜く技法ではなくなり、軍制やスポーツ競技へと近づいていったからではないか。
その変化は、すでに数世代前から急速に進行したため、現在の高齢者であっても、その変容がわからないことが多い。ましてや若い世代では。
よって、個人を超えた数世代以上の長い歴史的視点から、その変容過程を定点観測し、記録しておくことは、我が家のように十数世代、同じ技法を継承している者の役割かもしれない。
(ことにふるさとでは、代々、家伝の武芸(実技)を伝える家筋は、当家以外すべて失われてしまったから、今後は有志団体による伝承こそ「常識」となるだろう。すると「家伝」とはいったいどのような伝承形態なのか、どのような代々の覚悟と喜びと悲しみが積み重なっているのか、全く理解できない社会がくるだろう。我が家はますます異端になろう)
「全国レベルを目指して…!」というスローガンは、スポーツ競技としては素晴らしい。
しかし武の世界においては、必ずしも素晴らしいとはいえないのだ。
なぜならばそれは、他者が設定したモノサシへ合わせて、自らの姿を変えてしまうことであり、主体性を失って相手のコントロール下に入ること、それは敗北を意味する。