現代武道で小太刀は、あまり注目されることが少ない。なぜか。
小太刀同士で試合をする短剣道は別として、剣道やスポーツチャンバラにおいて、常寸の刀相手に小太刀で互角に打ち合うことは、ほぼ不可能だと思われていることが多い。
確かに地稽古(自由稽古)をやってみると大変難しい。
それでも、互いの得物の間合いが違うことは、競技ではない実際の戦いにおいては、ありうる状況だろう。
だからこそ、古流には、その困難な課題に向き合うための稽古法が残されている。
「正しい」カタチをなぞるだけの昇段審査科目や開会式用に陥ることなく、融通無礙、実際に使える技法を目指したい。
案外その小太刀稽古は面白いものだ。
当家では、幼児の剣術稽古の手習いとして、最初に小太刀を習わせる。私も息子もそうだ。
実際に、五歳の子どもが常寸の木刀を操作するのは無理である。
五歳の袴着を終えると、家の座敷で、亡き祖父相手に小太刀を構えて稽古がはじめる。
理屈はない、意味もわからず、ともかく所作をまねてなぞるだけ。
その稽古で祖父の木刀はゆっくりだったはずが、弘前八幡宮での奉納演武本番になったら、全く変わった。
幼稚園児の私に対し、祖父の木刀がうなりを上げて襲ってくる。
実際に当ててくるのだ。やられまいと必死に応じるしかなかった。
祖父の剣道および剣術の高弟で、神奈川から帰ってきたK師範も同じだった。
北辰堂で剣道稽古の後、素面素小手となり、祖父と父も交えて家伝剣術稽古になった。
「実際に打っていかなくてはならない」と、小学校低学年だった私相手に、遠慮なく木刀で打ち込んでくるから、ベソをかきながら必死で応じた記憶がある。
それなのに晩年のK師範は、成人した私の剣術をみて「速すぎるんだよなあ」と批判されたから、よくわからないものだなあ。
まあ、ともかく、幼い頃は意味もわからずやっていた小太刀の形。
いまひとりで振りかえるたびに、いろんな要素が埋め込まれていることがわかる。
いろんな気づきを教えてくれるようになった。
おそらくその身体技法は、現代の武道の一般的な刀法とは、少し異質な身体である気がしてならない。
小太刀の操法は、近現代武道から割愛されただけに、「こう打つべきだ」という近代以降普及した理合による先入観にとらわれず、道具の特性と己の身体との連携へ素直に耳を澄ますことができるのではないか。
そのなかから未知なる新しい自由を獲得していくには格好の教材である。