様々な武道、武種がそれぞれの垣根を超えて集まる合同演武大会がある。
全国的にも珍しく画期的な大会だ。
武の有り様がひとつではないこと、人間の身体文化の多様性、豊かさに気づかせてくれる。企画者には敬服する。
だが、いろんな意見もあるようだ。
「全国組織を持つのが正統な武道であり、それのみが出場するべきだ」
本当にそうだろうか。
ならば、近現代武道のルーツである古流などは「正統ではない」ことになる。
武士達が修業した古流(武術、武芸)各流派で、前近代において、全国組織となったものはないからだ。
それは、大きな勢力となることを警戒した江戸幕府の意向であり、各流派は藩を超えて組織を拡大することを許さなかったからだ。
そのルーツを否定することは、己自身をも否定することになるのではないか。
ちなみに現在の武道学研究でも「武道の定義」は決して不変のものではなく、時代ごとの変遷があり、とくに現代では、新しい視座による再定義が必要だと指摘されている。
よって「全国組織」が武道の絶対条件ではないし、それしか認めないのでは、新しく生まれつつある現代格闘技なども否定することになろう。
また「技法に習熟したものだけが出場するべきだ」
一見、もっともらしく聞こえる。
しかしよく考えると、何か「習熟」なのかという規準は、各武種ごとに違うのだ。
自らと異質な技法体系の習熟度が判断できるとは限らない。勝手なモノサシではないか。
あたかも、地を走る動物が、空を飛ぶ生物の身体能力を採点している滑稽さではないか。
いずれも「我のみ正しく、価値判断できる地位にあり、他は間違っている」という観念が、驕りが横たわってはいないか。
それはまるで、古代人か中世期の部族の如き小さな世界観であり、現代の大人の思考とはいえないだろう。
武は非日常、つまり我の想像を超えたものや、己とは異なる存在へ対応していく智慧と技法として生まれ、熟成されてきた。武の特性のひとつだろう。
家伝剣術伝書は「世の中にはどんなに凄いものがいるかわからない」と慢心することを忌む。
いかに己が好まない存在だろうとも、現実にこの世に存在しているものを、己の好悪だけで完全に否定しきることはできない気がする。
そのような行為は、神仏ではない、限りある人間の権限を超えているからだ。
むしろそのように個々の多様性と尊厳を否定してくる存在こそ、我々武の修行者が闘うべき相手ではないか。
わたしたちに求められているのは、たとえ相反する者であろうとも、それが存在している現実を冷静に受け入れたうえで、いかに対応していくかということであり、それが武の学びなのではないか。
よって「我こそ正しい」「最強である」などと己を閉じてしまい、広い世界への想像力や、異質な存在への畏れ、敬意を失った武は、自らの世界も小さく、脆弱にしていくことだろう。