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古剣稽古日誌

古剣稽古日誌

5年前のあの日も、薄っすらと雪が降る寒い日だった。
2011年3月11日、東日本大震災の朝、わたしは岩手県遠野市へと移動していた。
前日、新潟県長岡市の博物館で中越地震の体験談を聞いていた。
その夜は、重い雪が降っていたが、まさか翌日自らも被災するとは夢にも思わなかった。
遠野へ入るとき、一瞬レンタカーを借りようかと思ったが、やはり電車にした。
遠野市立博物館で、地元の地形を再現したジオラマのボタンを押した瞬間、大地の底から揺れ始めた。
「自分でボタンを押したから動いたのだ」とばかり思っていたから、「ジオラマ装置の効果だ」と勘違いし「凄い仕掛けだな」と関心していたから愚かなものだ。
ところが、高齢の女性達がギャーと叫びながら走っていくのを見て「本当の地震」であることに気づき、館外へ避難した。
電話線が混雑する前に、すぐさま自宅に携帯で電話した。
「私は大丈夫だ。必ず帰る」と一言だけ伝えた。その直後、すべての交信方法が途絶。
そこから私は数日間、野良犬のように岩手県内を彷徨うことになった。
とりあえず駅へ行く。途中、看板が落下し、窓ガラスが割れていく。
全く情報が伝わらないから、ひたすら次の電車かバスを待っていた。
そのうち駅員達の会話を聞いて、この先の鉄橋が落ちていることを知って愕然とした。
民俗調査で慣れた聞き取り調査で、あたりの人々から情報を収集した。
「私は阪神淡路大震災を経験したが、この地震はそれより大きい気がする。まず水を確保するべきですよ」見知らぬ男が教えてくれた。
「山むこうの親戚たちと全く連絡が付かない。この先の峠道を警察が封鎖している。大きな津波が来て役場の上に船が上がったらしい。」バス停の職員が教えてくれた。
そのときはデマかと思ったが、真実であることを知ったのは数日後のことだ。
その夜は遠野市内の臨時避難所へ。毛布の配布は65歳以上のみのため、そのまま床に寝る。
周囲に置かれたラジオから「○○町で何千人の消息が不明です」というニュースが続く。
家族のことが気になってしょうがない。
翌朝、意を決して避難所を出た。途中、避難用毛布を捨てた人からもらった。
「これで大丈夫。野外でも凍えずにどこでも寝られる」と喜んだ。
水も確保したから安心した。
被災すると不思議と腹が減らなくなる。そして見知らぬ人にも優しくなるのが不思議だ。
レンタカーは拒否されたため、タクシーをつかまえて花巻まで移動した。
新幹線ならば動いているのではないか、という淡い期待だった。
しかしダメだった。JR花巻駅は建物自体を締めきり、中に入れてはくれなかった。
雪がちらついていて寒い。早く帰って家族は無事か知りたい。
県庁所在地までいけばなんとかなるのではないか。
花巻から盛岡まで数十キロ、新幹線一駅分、歩いた。
バスも電車も止まろうが、己の足ならば止まらない。また歩けば体も温まるはずだと。
一日中歩いたが、なかなか着かない。自転車があればと思ったが無理だった。
革靴で足が痛いから、途中、家伝剣術小太刀の歩みに切り替えてみるとラクになった。
やはり古流の身体技法はサバイバルに使えるなあ。
途中、何度も頭上を、軍用機やヘリが飛んでいった。
また給油のために車が長い行列をなしていた。ガス欠で動けなくなっている車も見た。
ここで何が起こっても警察も誰も助けにきてくれない、という事実がうすうす感じられた。
ふだん我々を守ってくれている法律や国家という強固なガードが、解除されてしまった不気味さ、無政府状態とはこのことか。
二度と感じたことがない空気だった。いざというときは誰もあてにはならないという事実。
後日、友人から「ヒッチハイクすればよかったのに」と言われたが、そのときは「オレはこの地震に自分のチカラで打ち克つのだ!」と張り切っていたのだ。
ようやく盛岡駅前に着く。
ホテルは全て宿泊客を追い出していたので、野宿することにした。
そのとき奇遇にも、韓氏意拳S師範が向こうから歩いてくるのに遭遇した。
お蔭で新幹線乗客たちの避難所に一緒に泊めてもらえたのだ。感謝、感謝…。
テレビで初めて地震の全貌を知る。
わたしが歩いていたとき、原発が爆発していたことも知った。
避難所の床に寝ているときも、ときおり地鳴りがした。
しかし、疲れてふてぶてしくなった私は「どうなろうとかまわん。明日のためにいまは熟睡して体力を温存するときだ」と深く眠った。
翌朝、JRは各地への救援バスを手配してくれた。有り難い、やっと帰れる!
帰ってきた津軽は別世界のように平穏だった。
新青森駅まで迎えにきてくれた家族は、私を「野生の顔をしている」と言った。
職場で私は数日間行方不明の男だったようだ。留守電には「生きてますか?」という録音が。
その後、ニュースで、あまりに過酷な災害の全容を知り、自分だけ助かって本当に申し訳ないという思いが強くなった。
いま思えば私は、あの千年に一度の大地震津波原発事故の日時に合わせて、自ら被災地へと移動していったようなものだ。
そのことで深く学んだことがたくさんあるはずだ。
それを忘れずに、いまへ活かしているだろうか。

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