古剣稽古日誌

古剣稽古日誌

どうしてこんなに日本刀の文化は狭くなったのか、と思うことがある。
確かに日本刀は、武具としての歴史的役割を終えたから、美術品として認識するしかない。
すると、その操作法を知らずとも「オレの美術刀剣鑑賞眼こそ一番だ」「よってオレこそ日本刀のすべてを知っている」とする人が出てくる。
そのことで己のプライドを保つから、他を睥睨し、さげずむことまで始まる。
美術刀剣について勉強不足の私だから、何度かその攻撃対象となったことがある。
なかなかそのやり方は、他分野よりも苛烈で、あたかも熱心な信者の怒りをかったような。
強すぎる自負心が、若い人々が参加してくることを拒み、自ら狭めてしまっている。
しかし、もともと日本刀という器は「我こそ正しい」と居着くことを求める構造ではなく、よどまず流れ続け、臨機応変できる構造をしているような気がする。拙い稽古の感覚だ。
確かに美術刀剣鑑賞は、大名や公家、文人等が熟成、確立した素晴らしい文化だ。
しかしそれは日本刀の役割の一面にしかすぎないのではないか。
なぜならば日本刀は、戦い、神事、芸能等、様々な用途で使われてきた、多面的存在だった。
よって、それぞれの世界が求める、それぞれの機能と見方があったはずだ。
現代においてそれが「美術刀剣」ひとつに絞られてしまっただけなのではないか。
例えば家伝剣術伝書では、日本刀は美術品としてではなく、実用の器としてのみとらえる。
よって、武具として、兵器として、実際の戦いのなかで必要とされる構造ばかり説いている。
そのような実用のなかから、日本刀独特の構造と美が生まれたのであって、最初から美のみ求めて造ったのでは、現在のような形態にはならなかったはずだ。
そのことを現代の我々は見落としている。
ことに武具としての実際の操法が衰退したため、全く自分の身体で操作したことがない人でも、勝手な憶測で「正論」を唱える美術刀剣家も少なくない。
あたかも自動車を運転したことがない人が「正しい自動車とは」と論じている奇妙さか。
かつ武人ならば、日本刀を選り好みするのではなく「弘法筆を選ばず」でなくてはならない。
すなわち危機において、自分好みの道具でないと戦えないのでは、いくら命があっても足りない。
どんな道具だろうと活用できる、己の心身そのものを養成すべきだ。
とにかく日本刀は、武具としての歴史的役割を終えた。現代科学兵器の前には無効に近い。
だから現代において、兵器としての日本刀の「強さ」のみを論じても、社会では「無力」なのだ。
よって「なぜ、日本刀の操法に習熟すれば、心身の質が向上していくのか」について、具体的に提示し、証明していくことこそ、この世界を未来へとつないでいくための重要課題だ。
それができなければ我が家伝剣術も、現代における存在意義はないのではないか。

そう自問自答しながら稽古している。

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