久しぶりに旧弘前藩の名流、當田流の絵伝書を拝見した。
M先生の知人宅で発見されたものだという。
いまでも津軽では、旧家から藩政時代の武芸伝書が出てくることが少なくない。
我が父祖たちも当初は當田流の剣と棒をやっていた。
しかし17世紀後半、弘前藩家老棟方作右衛門らの導きか、現在の家伝である卜傳流剣術へと改流した。
だから我が家にも、當田流と林崎新夢想流居合を合わせ綴じた享保年間の伝書が残る。
よって、その絵伝書に描かれている不可思議な姿勢を見て、家伝剣術のベースとなったであろう身体、術理を夢想するのが楽しみだ。
その姿勢の多くは、猫背で撫で肩、下腹が出ており、撞木足で両膝が曲がった低い腰。
これらは、近代の軍隊や「正常歩」教育などで、悪しき姿勢として駆逐されてきた身体だ。
だから現代の各種武道が推奨する、胸を張って腰を反り、腰高でつま先立つ「正しい」姿勢や基本技術からも大きくはずれている。
現代の稽古で、近世武芸絵伝書のような姿勢をすれば必ず叱られる。
だから現代の昇段審査を受ければ、たとえ実戦を潜り抜けた往時の武士達だろうとも、「悪い姿勢だ」とされ、必ず落ちるだろう。
だからいまでは、この近世武芸の姿勢が、いったいどんなことを意味しているのか、近現代武道の高段者や専門家でさえも、ほとんどわからなくなっている。全く説明されていない。
たとえ古流師範であっても、現代ではむしろ逆に「昔の絵伝書の姿勢は真実を伝えていないから、参考にしてはならない」と忌むことさえあるらしい。
本当にそうだろうか。
実用技法であった時代に、武士達がわざわざナンセンスな姿勢を描くだろうか。
現代のような西洋式の一点透視図法とは異なる描写であり、全く写実的表現ではなくとも、これを授受した当時の武士達にとっては、己の身体で共感する何かが投影、表現されている絵だったのではないか。
現代の我々がその絵を否定したいのは、もしかすれば、歴史的に変容して異なる姿勢や技法になった現状に、目をつむりたいだけではないか。
私はこう考える。
中近世の武芸伝書に描かれている姿勢には、必ずや何か重要なヒントが表現されている。
そしてその姿勢、構えは、現代の我々のように整備された環境で使う競技的技法ではなく、ときと場所を選ばず、武技や武具の種類も選ばず、ルールや打突部位の制限もないという、我々が体験したこともない過酷な戦いから導き出された姿勢、身体だったはずだ。
興味深いのはその姿勢は、剣だろうと棒だろうと槍だろうと武具の種別で変えることなく、どれもほとんど同じ姿勢、身体で使っていることだ。
これは武具や武種の違いによって、基本や構えが異なる近現代武道とは違う。
すなわち当時の武士達は、あらゆる武具に通じる、汎用性の高い身体と武技を学んでいた。
20代の頃は、その姿勢の外形ばかり真似して、意味がわからず居着いて悩んだ。
それは違う。姿勢の背後に流れている、身体内部の状態や構造にこそ共感するべきなのだ。
そしてそれらの身体、構えは、特別に矯正して作った身体ではなく、常の身そのままを使っていたのではないかと今は推測している。
特別に矯正して造った身体・構えは、いくら練磨しても、心身の不調時や緊急時、稽古不足、加齢などですぐに剥がれ落ち、失われてしまうことが多い。家伝剣術伝書はそう説いている。
しかし常の身は、いつも深く、我々に土台に根差し、安定し流れ続けている。
往時の武士達が、鍛錬する前に健康であること、自然体である重要性を説くのはそのことか。
だからこそ、特別な準備や用意をせずとも、いつでもどこでも応じられたのではないか。
家伝剣術は、日夜、甲冑を手放せなかった乱世に生まれたというが、危機のたびに気持ちをリセットしたりコンディションを整えているのでは、やがて心身は金属疲労を起こす。
そうではなく、平常の心身をそのまま非常にもつなげていくことができなくては、臨機応変を欠いて、全く生き残れなかったのではないか。
とりもなおさず、現代の私にとって、武の身体を養成する稽古は、道場の中だけではなく、日常のどこでもできる、常住坐臥のすべてがつながっていく、ということか。

特別に限定された環境で構築した特別な心身は、精錬された高度な存在であるが、依存環境が失われると効力を減じてしまう可能性もある。

しかし対照的に、特に制限がない多様な環境で育成された心身は、その汎用性の高さゆえに、特別な場である試合競技以外の、日常生活の随所にも適用できるのではないか。

よって近現代武道以前の、往時の武士達が育んだ古い武の特性がそこにあるならば、この現代においても、充分に有効性と存在意義があるのではないか。