うち続く熊本・大分の大地震の甚大さに胸つぶれる。
修武堂九州支部長M氏も、熊本でこの大災害と闘っておられるはずだ。
皆様のご無事をお祈り申し上げます。
一方、我が津軽では暴風雨。方々でサイレンが鳴っている。
東日本大震災もそうだったが、なぜ我々はこれほど大きな天災が続き、目前で人の運命や生死を問われるような時代に生まれたのか。
現代の我々は幼い頃から、日々の計画をきちんと立て生活することを刷り込まれている。
しかし、実は明日がどうなるかわからない現実を生きているのではないか。
武や剣の稽古もそうだ。
いくら考えても相手がどうくるかはわからない。形はそのままでは実戦で使えない。
そのことは、古流ばかりではなく、実戦向きとされる現代の武技も同様だろう。
その形に、技に、こだわるほど、閉じ込められて動けなくなるだろう。
例えば、人と人との会話でさえも、二度と同じ会話は成立しない。
いくら地稽古、自由稽古でも、特定の形式や制限を重視する稽古方法ならば、実はワクにとらわれた形稽古と同じ構造とはいえないか。
例えるならば、自由に会話しているようでありながら、暗黙のうちに何かの前提を相手に押しつけたり、あるパターン内や業界用語で強引に処理しようとする行為に似ている。
そのうち、どこかに穴が、コミュニケーション不通が発生していく。
しかしそれでも、形がないと学べない。
拙い指導経験だが、最初から自由に打ち合ってもうまくなる人は、なかなかいないものだ。
ともかく刀法には全くならない。
おそらく形は、武器の特性を、心身の特性、見えない理合を学び、扱うための方便か。
それを家伝剣術や林崎新夢想流居合では人をつけて学ぶ。
それは、形が暗示する心身が、己ひとりのうちだけではなく、他人との関係性のなかでも、為すべきときと場で発揮できるかどうか試すためだ。
その際、打太刀はやはり熟練者が務めるべきだ。
学びの場をつくり、整えるだけの力量がある師だからこそ、導いていける師資相承の会話だ。
以上、武は、いったいどうなるのかほとんど予想できない世界を相手にしている。
よって、我々にできることは、どのようになっても対応できるよう、心身を鋭敏にしておくことだけか。
そのための基準器として形があるのではないか。
そのような形は、我が家伝剣術や林崎新夢想流居合等のようにまるで見栄えがしないから、演武大会や現代のようなショーアップには向いていないものだ。

(追記)

月刊秘伝5月号」に「林崎新夢想流居合研究稽古&渋谷金王八幡宮奉納演武会居合探究でつながる修行者達」特集記事が掲載された。当会による拙い運営だったが、多くの皆様に支えられて盛会のうちに終了した。改めて深く感謝申し上げます。5月下旬に第二回目の開催を予定しており、近日中にお知らせいたします。