つくづく形の稽古は難しい。
師匠である打太刀の器が試される。
予定調和の外形をなぞるだけの体操になるのはいけない。
だが、単なるつぶし合いになってもいけない。
打太刀は師匠がやるのがいい。それはなぜか。
それは打太刀が、弟子である仕太刀を導く役目であり、導くための適正な場を、環境を、各弟子のレベルに合わせて、自由自在に創造できる技量と人格を持つ者だからこそ務められるのではないか。
よって日本の多くの古流武術稽古では、仕太刀が技を存分に使い、勝ち方を学ぶ。
一方、打太刀は、仕太刀の技を受け、負ける側の役割をすることで、弟子の技の精度を導く。
これは往時の武士達にとっては、当たり前のことだったのではないか。
ところが現代の我々には、互角に対戦する試合形式の稽古観が染み込んでいるのか、すぐにそれがわからなくなる。情けないことだが私もそうだ。
打太刀でありながら、己のなかに生じてくる「負けん気」に負けて、弟子である仕太刀を導く役目を忘れ、ひたすらその芽をつぶそうとしはじめる方もいる。
そのうち、目先の勝敗を、己の力を誇示するため、形の設定を投げうって競うようになる。
または岡目八目「あんな形は、こうすればすぐに破れるぞ」と批評大会となる。
しかしそれは、あらかじめ形の手順が判明している弟子に対し、こちらは形を捨てて「後出しジャンケン」をやっているようなものだから勝つのは当たり前だ。単なるシゴキだ。
形はすでに死んでいる。そのような指導から弟子は育たない。打太刀側自身も上達しない。場が荒れていく。
ならば形などやらない方がいい。最初からスパーリングや自由稽古をやった方がいい。

なお、これは形稽古だけの問題ではない。
この稽古方法は、いったい何を気づかせるために設定されているのか。
指導者はそのことを常に自問自答しなくてはならないのだろう。