美術工芸品としての刀剣は好きだが、その武具としての操作方法に全く関心がないうえに、その操法に習熟した武芸者をさげずむ方もいるようだ。
先日も、美術工芸品としての刀剣知識に精通し、多くの貴重刀剣を所有、管理していることにかなりの誇りを覚えていらっしゃる一方で、それらを操った往時の剣豪達を、あたかも「連続殺人鬼」のように批判される方がいた。
不思議でならない。
その論理は矛盾してはいないか。
なぜならば日本刀の美的構造は、宗教者による神器や、大名や公家、好事家による美術品としての要請だけではなく、実用的武具としての強い要請が大きく影響しているはずだ。
よって武から生まれた美的構造ならば、その操作に精通した技と心身も、ひとつの芸術的作品ということになるはずだ。
実際に、刀剣の操法に生死をかけた人々が導き出した武芸伝書を紐解いてみればいい。
彼らを「殺人鬼」と批判する現代人が、ほとんど解読できない、高度な心身の理合と哲学で満ちていることに気づくだろう。
わたしには刀剣の審美眼がないから、いかに安物の刀であろうとも、その操法を磨く稽古で、己の心身の運用に関する新しい気づきと喜びが得られれば幸せである。その行為のなかで刀剣の美を感じることはある。
代々の我が家の父祖たちも、剣術師範として、美術工芸品ではなく武具としての機能を求めて刀剣と向き合ってきたはずだ。
だから、全く操法を知らないまま日本刀の美のみを説くことが、まるでクルマを運転したことがないのに、クルマの素晴らしさを説くような不自然さに思えてしまうのだ。