最近、再びランニングを始めている。
いまから陸上競技を目指しても無理で、単なる健康法や気分転換にしかならない。
それでも、天変地異が連続している現代では、整地やアスファルト上での走りや歩行に習熟するよりも、どこでも場所を選ばず、息長く走り、歩ける身体の方がサバイブできるはずだ。
それこそ、生きのびるための古い武術の設定にも通じるのではないか。
よって、なるべく起伏に富んだ土の上や、真っすぐに走ることができない木立ちのなか等を選んで走って工夫している。
さらにいいことは、柔らかい土の上の走りだと、固いアスファルトを蹴る反発で己の膝や腰を壊すようなことが少なくなる。
また、整地と違って、一歩一歩の瞬間ごとに、全く違う路面対応が迫られるので、全身の多彩な反応やバランス感覚も養える。
このような差異をいちいち考えるのは、舗装道路ばかり歩いている現代人だからこそ意識することであり、未舗装が常識だった前近代の人々にとっては当たり前のことだったろう。
(例えば日々、平らな道場で武道稽古していた方が、起伏のある地面で同じ技をやろうとしたときかなりの不便さを感じるものだが、逆にいつも起伏のあるところで稽古している人が、平らな道場に切り替えても、全く困らないものである。受け身もそうだ。畳の上で慣れた人は場所を選ぶが、最初から板の上から始めた人は、場所を選ぶような認識さえないものだ。)
しかもときどき、手を振らずに、両手に何か武具を持ったまま、それを遣える状態で走れないものかと工夫してみる。これが面白い。
普通の走法で疲れて動けなくなってきても、この両手に道具を持ったままの走法に切り替えたとたん、なぜかウソのように急にステップが復活し、ラクに加速しながら駆けていけるようになるのだ。
おそらく、使っている身体部位が違うのではないか。
往時の人々はどのようにして走っていたのだろうか。
(追記)
今回の林崎新夢想流居合研究稽古会の二日目5月21日には、
「卜傳流と林崎新夢想流居合をつなぐもの」
というテーマで、拙い実験稽古をご紹介したいと思っている。
古流の稽古とはおそらく、形の本数を多く覚えたコレクターになろうとも無力だ。
もちろん、有職故実のウンチク自慢も無力だ。
時代と環境に依存しているものは、それらが変われば無効となる。
よって、その土台となっている、身体そのもののあり様こそ問われているのではないか。
よって両流の稽古が、いったいなにを目指す構造となっているのか、その共通点について、ともに探求してみる。
ただ、現在試行中のものだから、今回限りで終わりになるかもしれない。
ご縁のある方、どうぞおいでください。