古剣稽古日誌

古剣稽古日誌

世の中はさらに暗く、風雲急を告げていく予感がする。

世のあちこちで、ますます拘束が強くなっていくだろういま、非力な私ができることといえば、己を見失ない、流されてしまわないよう、

目前の世界に直接向き合っている、この我が心身の規矩、位を、しっかりとさせていきたい。

そのためにも、我が稽古を積もう。

ここ数か月は、なぜか、公私ともに刀剣類に囲まれてしまっている。

仕事では博物館特別展の刀剣展示作業で、帰宅すれば稽古で。

いずれも刀剣そのものの構造的特性とバランスを感得することが重要だと感じた。

ことに、博物館の狭い展示台、しかも前後に真剣が並ぶなか、身を折りたたみながら、長大な刀剣を展示する技術は特有のものである。

刃筋を整え、それに己の心身も一体化させて扱わなければ、刀剣も己も不安定となり、大惨事となりえない。

わたしの体のケガならば治癒するが、長い歴史を重ねてきた貴重刀剣の傷は治らない。

よって刀剣展示作業で必要とされる技法は、美術刀剣の手入れ方法とも全く異なる気がする。

かつ、近現代武道やスポーツのように、広い空間で力いっぱい心身を動かすような技法でも対応できない。

本当に動きの質が求められる。緻密かつ正確にゆっくりと動きながらも、粗密や間欠がなく、いつでも状況の変化に応じられるような状態であり続ける心身、呼吸が必要だと感じた。

だから、三尺を越える巨大で重い太刀や薙刀の展示作業では、ふだんの素朴な家伝剣術「生々剣」および林崎新夢想流居合の稽古で、じっくり養った身体が本当に役立ち、そのありがたさを改めて痛感した。

やはり、私にとっての刀剣類は、美術工芸品よりも、剣術稽古で心身を整え、導いてもらう法器だ。

有名無名どのような刀剣類でも、我が師となる。

かなりの時間を要すると予測していた刀剣展示作業は、なぜか順調に進んだ。「凄い眼光だ」と仲間から指摘されて、ハッと我にかえった。

お蔭様で刀剣特別展は、初日から大入り満員、会場には四十数振りの刀剣類が並び、身動きがとれないくらいたくさんの方々においでいただいている。感謝。感謝。

不思議にも「お寺の本堂のような香りがする」とおしゃる方は数名いたが、なぜだろう。

そして、久しぶりの修武堂定例稽古では、みなさんに、家伝剣術の一本目「生々剣」が、五つのステージで、それぞれ変化させて稽古していくことを体験いただいた。

私自身まだ正解を知らない。

だから、いま感得できているレベルで問題提起をして、ともに探求する。

拙くとも、なんとか懸命に説明するなかで、私自身のなかで未整理だった部分が整理され、新たな気づきも獲得できていく。

当流の稽古は、近現代の普及用に整備された一般的な形のように、何歩で歩いて、角度何度で打つ、などといった、決まりがない。

おそらく各流も、もともとなかったのではないか。

そのようなあらかじめ固定され、数値化された動きを何度やっても、常に変化する相手には全く使えない。

逆に現実から遠ざかり、己本来の生命力を封じていくだけだ。

現代社会の傾向にも似ているような。)

おそらく近代以降、我々は、常に変化しつづける攻防へつながる、形の遣い方、稽古方法を忘却してしまっている。

当流の形も、おおまかな手順はあっても、打つべきときと場で打ち、さばくだけだ。

為すべきとき、なすべき場、を感知するのは、言葉でも数字でもない。

己自身の心身、感性だ。

だからそれを間違えば、木刀の直撃を受けることもある。

するとそのうち、防具が無い素面素小手でも、木刀や真剣相手に我が身を守るためには、精神論ではなく、具体的に、物理的に、何を防具の代わりとし、何を盾の代わりとすべきか、ということを本気で考え始めることになる。

そのなかで、剣同士の稽古でありながらも、その稽古法のなかには、素手の柔術や、槍や薙刀へ対する技と共通する理合が内包されていたことにも気づく。

己の心身と世界のとらえ方が、太く、濃く、豊かになっていく楽しい稽古だ。

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