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人の振り見て、我が振り直せ。
私だけではなく、誰しもひとは、いつも同じ問題にぶつかることが多いのだろう。
実はそれは、己自身の個性ゆえ、引き寄せてしまっている場合が多いのではないか。
他人には、その様子がすぐに見えるが、我がことになると、なかなか見えず堂々巡り。
さて、わたしの刀剣展示技術は、まだまだ未熟、勉強中だ。
他の優れた展示方法を見ると、己のやり方が恥ずかしくて穴に入りたくなる。
そんななか、幸せなことがある。
平安末期から近代にかけての様々な刀工による、様々な形態の刀剣類に直接触れられる。
幸甚の極みである。
鍛えや刃文の鑑定眼を知らないわたしは、身体を通じて刀剣の姿や構造から、多くの学びをいただく方が大好きだ。本当に勉強になる。
例えば、幕末の反りが少ない刀剣類、持ったときに違和感が少なく「これは斬れる」と感じる。これは竹刀稽古が流行した時代のものだ。
すなわち私の身体は、近代以降の竹刀稽古、撃剣稽古の延長にあるということか。残念。
しかし、腰反りが高くて踏ん張っている、平安末期から鎌倉にかけての古刀は全く違う。
持った瞬間、なかなか私の身体がリンクせず、迷った。
このような刀剣は、剣術や居合稽古に向かないので、腕を痛めてしまう、という方もいるが、それは違うのではないか。
すなわち、そのような古刀の姿は、近現代の我々が「正しい基本」とイメージしている刀法、近代以降のものとは、全く違う理合を、操法を求めているのではないか。
私の身体がそれを知らないだけなのだ。
それを思うたび、これに適合した心身とはどんな感じだろう。
おそらく、いまは失われてしまった、いにしえの剣の理合。
それを体感してみたいと熱望している。
奇遇にも、私が試し斬りで使っている愛刀も同様の形態だ。
さらに探求してみたい。