まるで、少年時代に夢中になったジョン・クリストファーの小説「トリポッド」の冒頭が現実化されていくのを見ているような不安がある。

自分の代わりとなるアイコンが増え、バーチャル空間と現実がますます融合していくいま。

なにが本来なのか、何のために己が生きているのか。

ひとりひとりが常に自問自答することが、ますます切実な課題として求められている。

何のために己が生きているのか。

その規矩、モノサシがないと、目先の感覚的誘導に支配されやすい。

そのあまりの便利さと楽しさに忘我しすぎていると、世界的な「一体感」のまま、ルールを作った存在にすべてコントロールされている現実が出現してこよう。

ゲームにすれば、勉強も、観光も、高齢者のリハビリも楽しくなる、とニュースではうたう。

だが、本来それがなにを目指すのか、考えることなく、感覚刺激を優先して、構築したものは、ずっとその刺激がないと立ち上がらなくなる性質となるだろう。

そのうち、外部から刺激を与えてくれる存在を渇望する、受け身の心身が習性となろう。

代理的存在が増殖した原因のひとつには、本来のもの、現実のものが魅力を失ったこと、そして、わたしたちが現実を深く見つめて悩む辛さに飽きてしまったのからなのか。

しかし、我々は生身の人間であるからには、万人いやおうなしに、目の前の現実を生きるしかないのだ。残念ながら。かつ我々の目の前の現実は、あまりに複雑、困難、切実で、目を離していられないのだから困る。

非力な私などは、毎日の雑事をこなすだけで精一杯で、バーチャルをよそ見する余裕がない。おそらく、よそ見したとたん、たちまちこけてしまうだろう。

それでも交通事故になってもバーチャルに注視する人々が増えている。

それは世界のあちこちで起こっている。

いまやっている私の剣の歴史でさえ、代理的存在へと変化してきた。

明治維新で剣が実用の場を失い、普及のため、見世物としての撃剣がはじまり、やがて体育および競技としての剣道が整備された。

やがてその目的は、昇段のため、試合での勝利となった。

部活時代、ヘソ曲がりな私は、たとえ試合で勝っても

「これは同じ競技参加者のなかだけでのいい話なのではないか。試合で勝つことと、道場の外の広い世界、全く違う人々と生きていくことと、いったい何のかかわりがあるのだ」

という疑念が消えることがなかった。

いまにして思えば、剣を普及させる方便として、一般にわかりやすく、意欲をつけやすい競技方法を設けたが、それがすべてとなってしまったことへの矛盾を感じていたのだろう。

つまり、私の剣道への意欲と稽古は、優勝メダルという他者から与えられた価値観によって動かされていたのであり、己の考えもなく、ひたすら上位に従っていただけだった。

前近代のサムライ達のように、自らの心身で考え、自らの足で歩いて創造していく主体性のなかから、本来とはなにか、現実とはなにかを、体認していくなかから、己のモノサシが生まれてくるはずだ。

それが熟成すれば、バーチャル世界にコントロールされることなく、適度な距離をもって使いこなしていく人間となるだろう。

そのための修養方法のひとつとして、前近代の古い剣術は、武術は、かなり有効だと考えている。目前の現象に全身全霊、己自身の生身の心身で向き合わないと大変なことになる、ということを直接体感できるからだ。