わたしたちが暮らしている土地ごとに、それぞれ固有の伝説や伝承があった。

私が専攻した民俗学では、足で歩き、そこに住む人々から聞き取り、記録していく。

その伝説や伝承の真偽はわからない。

しかしどれも、そこに住む人々にとってはかけがえのないレジェンドなのだ。

人々はその語りから、その場でしか感得しえない、大いなるものへの信仰、先人達の業績への深い敬愛、喜怒哀楽を覚え、ここに住むかけがえのない意味を知り、己の存在意義も見出していた。

卑近な例だが私の場合は、戦国期に先祖が戦った土地、かつて家伝剣術道場があった場所、先祖や先師達、同志が眠る場に行くたびに、彼らの足跡を思い、それを継承している己が、いま為すべきことを果たせているか自問自答を迫られ、決意と約束を新たにする。

そのことが、この土地に生きる意味、そして小さな私が存在していく裏打ちとなっている。

だが、移住が活発になった近現代は、土地ごとの固有の意義づけは、急速に失われている。

その原因はいろいろあろうが、固有の伝説や伝承を失った土地は、その個性、かけがえのさなさ、固有性も希薄となって平準化し、フラット化していく。

「どこに住もうと同じだよ」と。

その代わり、市場経済やマスコミが提示する、新たな価値基準で比較され、等価交換できる存在となる。

駅に近い、学校に近い、スーパーが近い…。より便利な場所がいいと、自由に移動していく。

やがてそのうちわたしたちは、「なぜわたしはここで生きているのか」という問いには、答えることができなくなる。

己の生きる場が不安になったとき、足元を一足飛びに越えて「日本人だ」「サムライだ」と、近代の巨大なシンボルに頼りたくなる人も出てくる。

また、平準化して意義付けを失った現実世界上を、バーチャル空間が新たに仮想アイコンによって意義付けしていくことも始まっている。

しかしそれらはどれも、現実のその場がどのように生まれ、どのように拓かれてきたのかという固有の歴史と、そこを生きる人々のかけがえなさを説明しきれていない。

存在意義の不安は終わらないだろう。