別展「刀剣魂」が開幕するやいなや、急に引っ越しすることになった。

オール電化、屋内の冷暖房、空調、換気システム、調光、セキュリティのすべてが機械管理。

おそらく現代では一般的な住宅なのだろう。

しかし、旧弘前藩時代からの武家住宅で生まれ育った私からすると、違和感ばかりだ。

なぜなら、明治初期に移築してからでも一世紀以上たった古びた実家は、人力が多かった。かつ、屋内のあちこちに、すき間が多く、雨音も風の音もするし、夏は暑く、冬は寒く、降雪の重さで室内の戸が開かなくなるのが毎日だ。

それだけ、ナマの身体と感覚で、外界の変化を感じて生活していたのかもしれない。

しかしこの新住宅は、確かにきれいだが、何かしようとするたび、意味のわからないコンピューターのスイッチが必要で、なかなか目的にたどりつけず、もどかしいことばかり。

そしてなによりも、密閉性、気密性が高すぎる。これにはまいった。

確かに冷暖房施設の効率がいいのだろうが、あたかも、ビニール袋のなかに閉じ込められたような息苦しさ、圧迫感があり、どうしてもクーラーに頼らざるをえなくなる構造と見た。

かつ、家全体の構造から、住んでいる人の日常動作が小さくなるとみた。

具体的にいうと、低い床から立ち上がったり、また座ることを繰り返す動作が少なくなり、常にイスやソファーに座っているような中途半端な姿勢が多くなる。

膝の柔軟性だけではなく、全身の連携が少なくなりそうだ。

ありありと実感を通じて、日本人の身体が近代化されてきた実情が想像される。

近代初頭に来日して、正座する日本人の柔軟性に驚いた外国人のようになりそうだ。

いや、現代では、これが日本の過半数の住宅事情なのであり、前近代住宅で育った私の違和感は少数派で、理解されないかもしれない。

だとすればこの違和感は、変化の過程を示すデータとして明記しておくべきかもしれない。

ともかく、あまりに清潔安全な人工環境のなかでは、身体の体温調節、防疫機能、外敵や災害など危険への対応も、生物として必要な能力の多くを、すべて機械管理に委任してしまい、かつ己の姿勢制御も鈍化していくのではないか。

家の外に出たら無力になるのではないか。

で外の空気を遮断してしまう現代住宅の構造が、逆に人間の免疫機能低下を招いているのではないかと推測していた一級建築士 故加川康之氏の言葉を思い出す。

家伝剣術をやっていた先師や先祖達の身体も、このような守られすぎている住宅暮らしから養成されたのではないだろう。

すなわち、この新宅が「気持ちいい」「当たり前だ」となって適応してしまったときには、私の身体も大きく変容し、生きる能力も、それをベースとした武術の技量も、かなり減殺されてしまう気がしてならない。恐ろしや。

だからこそ現代において、生きる心身を養う前近代の武術、家伝剣術を、やるべき意義がある。