我々、武道・武術の修行者は「正しさ」に憧れすぎることがある。

「正しさ」こそ強さだ、段位だと、己の尊厳のもととし、ときにそれに居着いて他人を睥睨(へいげい)してしまう。

さらにロマンとして「城下町だから、武士の街だから、武道の正しい基本をやろう。」と。

残念ながら現実は違う。

なぜならば、現在の武道そのものが、明治・大正期に整理されたものであるからだ。

よって、その「正しい基本」も同じく、近代以降に編さんされた新しい存在であり、城下町に武士が住んでいた時代の「正しい基本」とは、大きく変わっているのだ。

おそらく、いまの私たちが、城下町時代の武士の技の「正しさ」を目の当たりにすれば、理解できないかもしれない。

なかには、いま、己が信じている「伝統」「正しさ」の土台が混乱し、拒絶したくなる方も出てくるだろう。

すなわち「伝統」も、武技の極意と同様、変化するものなのだ。

そのなかで何を「正しさ」とすればいいのか。大変、難しい問題だ。

例えば、他人が考えた理念を借りてきて「正しさ」とすれば、そこに守られ安住できる。

反面、己はそれによって精査される、囚われの身とならざるをえない。

さらに理念と生身の人間の実態は違うものだから、常に自己批判と自己矛盾に悩まされる。

青少年時代の私もその傾向があった。

だが、いまは脱線してしまった。

「正しさ」などとうてい知らない。

しかし拙くとも、己の身をもって試行錯誤のなかから探求し、創造していくなかから、これしかないと、骨身に深く体感されてくるのではないだろうか。

武とは、スポーツと異なって、現実世界を生きぬく技法だから、チームや連盟に属していなくても、誰でもできる。

どう動けばいいのかは、基本テキストよりも、目前で対峙している相手、己の心身、手に構えた刀剣そのものに、直接に教えてもらうのが一番だ。

だから、「正しさ」も地図もない。

混沌とした世界のなかを、誰の支援もなくとも、歩き続けるなかから、それぞれが己の世界を発見していくことなのではないか。

そのような自主自立の歩みのなかから、武技だけでなく、己の心身の規矩、自主自立の士大夫、サムライが立ち上がってくる。

往時の城下町の武士達も、そうやって修行していたはずだ。

だからこの北奥の辺境地でありながらも、津軽の武士達は、現代武道家が解読しきれないような深い内容の伝書類を書き残せているのではないか。

そのほとんどが、この一世紀で忘却されてしまった。

少年時代、わたしはその跡地に立って、為すべきことを決意した。

しかし、己の無能さに呆然とすることばかりだ。

それでも探求していく自由だけは許されている。