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武を、若い頃だけの腕自慢や競技大会の思い出だけで終わらせるのは、もったいない。
生涯をかけて、ココロとカラダを養っていく、深い喜びに、
そして、試合コートや道場より遥かに広い、この日常を生きていく糧とするために。
まずはじめに、我々人間は、体の遣い方とアタマの指向性は、非常に深く連動している。
私のようにアタマが固い者は、やはり身体も不器用であり、柔軟な思考の人は、身体も対応力が高い。
かつ、わたしたちの現代生活は、便利に構築されすぎて、生身の心身をあまり駆使しなくても、いつも小さなルーティーンワークのなかだけで生きていけるようになった。
だから、ますます心身はさぼって、狭く定型化している。
個々が定型化し、融通がきかなくなれば、その集団、社会全体もそのような指向性になろう。
それでは、想定外や変化に対応できない養殖魚の世界、脆弱な社会となってしまう。
そこで、剣術や武術、芸能などの古い技芸が役立ってこよう。
なぜならばそこには、現在から規格外、我々が知らない異種の心身が伝承されているからだ。
動くなかから「己のカラダはこんなふうにも動けるのか」「こんな感覚世界があったのか」
私たちは、現状とは他の可能性、引き出しを発見し、心身が柔軟に豊かになっていく。
その途上で我々は、実(現実)から乖離して、虚構化してしまうこともある。
模索している苦しさから逃れ、自己陶酔の幻を「確かなモノサシだ、規矩だ」と安住し、思い込んでしまうこともある。
それでは現実に対応できる武とはなりえない。
よって、その魔境に陥らないためには、自分の生身の身体や、道具や他者も介在することが重要な道しるべとなる。
ことに、自らの思い、願い、力ばかりを頼りとしたとき、その限界性に呆然とすることがあるが、
手にかざした刀剣という他者に耳を澄まし、心身をゆだねれば、
我がこだわりのあまりに封鎖してしまっていた厚い壁が雲散霧消し、
いきなり目の前に、広い未開の地、新たな可能性が出現することがあるものだ。
その意味において、日本刀は、古い剣術は、武術は、芸能は、
いまもなお、稽古を通じて、ひとりひとりの心身を導き、
ひいては社会全体を豊かにしてくれる法器となりうるはずだ。