お盆で実家に帰省。

約200坪の庭は、あまり手入れしていないから、様々な高低の植物が生い茂り、よく野鳥もきて、植物園か雑木林のようだ。

新興住宅から見えないので、半裸で素足に草履履きになって、思い切り野稽古。

素振りだけではもったいない。真剣や長い鎗などメチャクチャに振り回しながら、茂みのなかを駆け回ることも貴重な稽古になる。

いつもフラットな道場や体育館ばかりで稽古しているのも問題だ。

たとえ足さばきの指導に厳格な武道師範でも、道場専用の繊細な足さばきとなってしまい、少しでも起伏があれば、技が使えなくなることが多い。

比較的平らなコンクリートの上でも、少しの砂粒があるだけで「日本剣道形演武がうまくできなくなる」とぼやく師範は少なくないのだ。

室内でなければできない、場所を選ぶ、というのは競技であり、武としては不安だ。

ふだんから起伏のあるところを歩くこと自体が、人間の身体能力涵養に直結しているかということではないか。

さて、よく「史料によると、合戦では鉄砲や弓、槍や薙刀がメインであり、刀剣は無力だったようだ」「槍こそ最強だ」という説がある。

はたしてそうなのか。

確かに自由稽古をやれば、間合いに優れる槍や薙刀は、剣より有利だ。

竹刀や木刀を構えかかっていくが、なかなか入れない。剣の間合いに入る前にたたき伏せられ、突かれ、足元をすくわれたりして、何度も工夫した。

(そんなとき、家伝剣術の形にいいヒントが埋め込まれていることに気づいた。これはまた別の機会に)

反面、槍や薙刀などの長柄が自在をえやすいのは、周囲に障害物が何もない、平原または道場や体育館の場合かもしれない。

例えば、屋内はどうだ。学校に備えている防犯用の長いサスマタも、よほど稽古しないと、天井や壁や机やイスなどあちこちにつかえて自縄自縛となる。

往時の戦いや突発的な戦闘でも、建物のなかや、草木が生い茂り、起伏の多い山野等では、常に長い武具が「最強」、有利とは限らなかったのではないか。

かえって刀剣のように、自分の手足がそのまま少し伸びたくらいの大きさで、行住坐臥どこへでも常に携行でき、しかもあまり小さすぎない武具の方が、汎用性、利便性が高く、好まれたのではないだろうか。

刀剣を携帯しているだけで、あたかも身体にするどい爪や牙が生えているような存在となり、広かろうか狭かろうが、就寝中でも、便所のなかでも、様々に対応できたはずだ。

さらに室内であっても、開祖塚原卜伝は、刀ばかりではなく、瞬時に脇差や小刀へと使い分けられたという伝承もあるから、武具はその場ごとに最適なものがあるのであり「これのみ最強」とこだわる慢心こそ、命とりだったのではないか。

(ほかにも、銃器などの特殊な構造の場合は、故障の心配も増える。逆に杖や棒、刀剣などの簡素な構造ならばその心配は少ない。)

今日も、刀剣を携えて、庭の雑木林を歩いていると、刀剣を杖にして山野を跋渉するといった、昔の読み物の表現も納得できる。

すなわち刀剣は、武具としてだけではなく、杖やピッケルなどのサバイバル道具、塀を乗り越えるハシゴや荷物を担ぐなどの道具にも活用できるのだ。本当に便利な武具だ。

他の武器に比べて刀剣の構造は、特定用途に特化しすぎていない感じがする。そのことが刀剣をより優れた存在にしている気がしないか。

このような刀剣の多様な遣い方や知恵は、近現代武道が、邪道、非礼、として割愛してきたことだ。もしかしたら、そのことによって、刀剣の世界を小さくしたのではないか。

ともかく常に携行し、様々な場面で使っていれば、刀剣は我が心身の一部として一体化する。自ずと愛着がわき、しだいに深い精神観まで生まれてきたのは自然のことだ。