父祖たちが創設した北辰堂道場は、133年目を迎えた。

社会とともに変化してきた道場の式典で、いろいろ考えさせられた。

自分の道は自分の考えで決めたい、と焦るものだが、たいていそうはいかない。

多くの場合、世界の万物は、己の意思にかかわらずに動いていき、

そのなかでいつの間にか、なにかしらの役割が与えられてしまっている。

生まれてくること自体が己の考えではないのだから、人の世を生きていくことも、死ぬことも、実は己ひとりの考えだけで決定できないのではないか。

与えられた場と役割に目をそむけず、いかに冷静に感知し、向き合うかどうかで、人生は大きく変わるのではないか。

例えば「正しい」圧倒的多数の方々からすれば、古い少数派の形式を伝承している私は、

道を外れた異形に見えても仕方がない。

私の姿を見るたび戸惑っている。「なんでこんなのが混じっているのか」と。

その眼差しに囲まれた己の立ち位置が滑稽で、苦笑してしまう。

だが私のこの異形さは、決して私ひとりでねつ造したものではなく、

長い歴史のなか、多くの先人達によって変化し、形成されてきた結果である。

よって、それをこの身に受け、「正しい」人々の前で、ときどき異形を披露しなくてはならない境遇さえも、私個人の考えを越えた何かの役割であり、必然性なのではないか。

与えられた場と役割を前に、己の好悪に居着いたり、どうなるか成否を占ない臆することなく、粛々と全身全霊、身を投じていきたい。

そのことも、想定外の切実な場を乗り越えていく武、剣の特性そのものと、つながるのではないか。