なぜこんなに林崎新夢想流の形は、所作は、あまりに不可解で難しいのか。

先日も現代武道師範にご覧いただいたら「なんであんなに接近して抜くのか」と不思議がられた。(その理由については何度も説明したからここでは割愛し、10月8日の「全国古流武術フォーラム」(http://hayashizakishinmusoryu.jimdo.com/event/event3/)で再度詳しく解説したい)

家伝剣術の所作も不可解だ。我が家は古くて不可解な術ばかり伝承してきたようだ。

だから現代では普及しないのだなあ。

だが、もしかしたら、むしろ我々現代人が理解しやすい形や技のなかには、近代以降の運動観をベースに近年生まれたか、または改変されていることもあるのではないか。

まあ、それはともかく、己の稽古をしよう。

重くて長大な林崎新夢想流居合の三尺三寸の大刀と、いかに一体化するか。

夜に帰宅してから、新築の家を傷つけないよう、三尺三寸の特注木刀をそっと動かしてみる。

なかなか難しく苦慮している。

近代武道で推奨してきた、腰を入れて胸を反らせるような直立姿勢では難しい気がする。

刀と我が身が、別個になってしまい「己が刀を操作している」という感が強くなる。

それでは刀を構えているだけで自縄自縛、居着きやすいし、身体への負担も大きく、相手を凌駕するどころではなくなる。

どうしたら一体化できるかと、大刀を手に携え、その切っ先まで、我が身体を拡張させて、気脈を通していく。

刀が、我が身の一部となった合成怪獣キマイラか鵺のような存在になっていくのかもしれない。

すると三尺三寸の大刀の重さが消える。

重くて取り回しにくい道具ではなく、むしろ我が身を導いて動かしてくれる推進力発生装置となる。

身体への負担も少なくなり、居着きが少なくなる分、自在さを獲得できる。

そのうえで形稽古へ入っていく。

すると決まりきったはずの形稽古が、多彩な気づきと発見に満ちてくる。

おそらく、前近代の形稽古とは、現在のようにひとつひとつ明確な外形と規定があるのではなく、

身体の土台や感覚が養成されていれば良しとし、あとはその場その瞬間にいろんな変化が飛び出るような、

かなり融通無碍で変化に富む、楽しい稽古だったのではないか。

身体を鋳型にはめ込んで狭くしていくのではなく、むしろ豊かに養成していく稽古だったろう。

そのような微妙な心身を伝えられるのは、師資相承の個別指導だからこそできたろう。

普及のための集団指導法の導入により、手順と外形優先の近代西欧体操式の稽古法へと運動観もシフトしていき、形は生命力を失ったのではないか。

そのような活力を失った手順ばかりの形稽古はつまらないものだ。

それでも、カタチをひたすら繰り返して伝承していくことも、後世への記憶装置として意味はあろう。

なぜならば、やがてご縁のある人によって、再び魂が吹き込まれる可能性があるからだ。

だが、私はそのような役割では終わりたくはない。

ささやかであろうとも、先人達が伝えようとした活きた技の魂を、この身で感得する喜びにふるえたいと切に願っている。

フォーラムでは話題提供として、そのような拙い我が模索にもお付き合いいただきたい。