来る10月8日(土)、山形県村山市武道館にて「全国古流武術フォーラム2016-林崎甚助の居合を探るII-」(日本武道文化研究所 主催)

http://hayashizakishinmusoryu.jimdo.com/event/event3/)が開催される。

 今回のフォーラムでは、私も、弘前藩の林崎新夢想流居合講座を担当させていただく。

 この居合は、戦国末期に山形で誕生し、近世に日本列島各地へ伝播した。

だが、近代以降も全国普及の整備を全くせず、各地の篤志たちによって細々と伝承されてきたため、より抜刀術、居合術の古態を残していると推測される。

 その証拠に、その所作のなかには、近世中後期以降派生した各流居合と類似する動きが散見されるから、比較研究の事例となろう。

だが、たいがい一連の形は、現代人にとって不可思議な所作と姿勢で満ちている。

 それは無理もない。これを使った先人達と我々では、ライフスタイルと身体の土台が違う。

例えば、幕末の弘前藩「修武堂」では、それまでの各流派毎みやっていた武芸稽古を、幕府講武所式の合同竹刀稽古へ統一したが、すぐに、欧米式軍隊へ転換するための訓練も導入した。

それは具体的には、ブランコ、駆け足、高跳び、縄はね等の西洋式体操だった。

代々、弓馬剣槍術で育ってきた武士達は、初めて行う運動に戸惑い、ケガする者までいたという。

現代の我々ならば、逆に、ブランコや駆け足等は誰でも当たり前にできるが、弓馬剣槍術の稽古にはほとんどついていけないのではないか。

いかに身体の遣い方が違っていたかということだ。

 よって、林崎新夢想流居合の不可思議な身体技法には、近代以降の西欧競技スポーツや、その影響下で発展してきた近現代武道の試合技法で育ってきた我々が、ほとんど体験したことがない、先人達の歴史的な経験と智恵が埋め込まれているとみてよいだろう。

 体と心は連動している。

身体技法に新たな展開があれば、ものの感じ方、考え方まで新たな展開があるものだ。いままで見えなかったこと、発想できなかったことに気づけていく。

 とくにこの居合の稽古には、協会や連盟などの組織的拘束がない。

だから誰もが最前線、ダイレクトに、術理に向きあえって稽古できるダイナミズムがある。

「軒近き一本ゆえに世の間の、花の盛りを知る桜かな」(「序 本覚克己流和 初巻」)というように、己ひとりの小さな稽古からでも、世界全般を貫く道理を伺い知れることもある。

さて同流居合の稽古である。

最初の一本目「押立(おしたて、おったて)」が核となり、あとはそれがいろいろ変化してその形につながっていく感がある。

 加えてこの「押立」の形稽古は、九寸五分の短刀の突きを三尺三寸でいかに斬り留められるか、という創流伝説そのものの再現し、追体験をする学びである。

すなわち、自分の身体で、開祖林崎甚助師の経験へと直接リンクを試みる手段だ。

 よって極論をいえば「押立」だけ稽古していても充分に稽古が堪能できる。

 まずは「趺踞(ふきょ)」と呼ばれる、古い座法をとる。

 現代人である我々にとっては窮屈きわまりないが、おそらく先人達にとっては日常の座法であり、もしかしたらラクな姿勢だったのではないか。

 私たちの身体技法や感覚は、変化してきたことが痛感させられよう。

 趺踞の姿勢でいかに自在を得られるか、じっと身体を調整するだけでも本当に深い稽古ができる。

おっとこのままでは技がはじまらないではないか…。

己ひとりの楽しみで終わらせず、後世までの共通遺産として復活させるためには、そこで留まらずに先に進まなくてはならないなあ。